11月 6 2005
新しい本
新しい本を書くことにした。
数社の出版社からオファーが来ていたのだが、無条件に好き放題やってよいと言ってくれたN社にすることにした。N社はニューエイジ系の出版社だが、社長のI氏は、実際のところ、チャネリングカルチャーものよりも、昔ながらのコアなオカルト路線の方が好みのようだ。それに、アメリカ発ニューエイジものの翻訳本を多数手がけていることもあって、それなりにUSAとのパイプもある。新著の出来がよければ米国での発売も考えているとのこと。そうなければ、いよいよ、西洋文化圏にヌース理論が進出することになるわけだ。まぁ、予算面で実現するかどうかは未知数だが、そうなると面白くなるかもしれない。
新著を書く必要性はすでに去年の始めから感じていた。過去の三冊の著書の内容はローリングストーンをモットーとするヌース理論からすれば、過去の遺物だ。まぁ、理論と称して本を出しているなら、そうコロコロと内容が変わっていってはまずいのだが、ヌース理論の内容は「人神」が出た8年前とはすでに大きく様変わりしている。そろそろ、現時点での理論大系の全貌を一冊の書物にまとめてみたくなったのだ。
2作目の「シリウス革命」は当初800ページぐらいの分量だったが、製本不能ということで、600ページ強に削られた。さて、今度はどうなるか。とにかく書きたいだけ書く。そこから贅肉を削ればいい。執筆期間は1年。発刊は再来年始めあたりだろうか。会社の業務をこなしながらの作業なので難航は必至だが、なるべく早く挙げたいものだ。
どういうスタイルで行くか、思案中である。とにかく、斬新なスタイルを試みるつもりだ。読んでも、見ても、聴いても、クル本。そんな本にトライしてみたい。
12月 13 2005
精神現象学
新著の構成が今ひとつはかどらない。こういうときは普通なら気分転換をはかり、街に出るなり、音楽を聴いたり、映画を観たりするところだが、わたしの場合は違う。自分を徹底的にいたぶる。哲学書を読むのだ。考えがまとまらないときの頭の状態というのはえてして考えているようで考えていないときが多い。思考の問題というより意欲に欠けているのだ。欠けた意欲は気分転換では補うことはできない。徹底して自分を痛めつけるしかない。痛めつけることによる触発が必要なのだ。そうやって今日、本棚から取り出したのは「精神現象学」(長谷川宏訳 作品社)という一冊の分厚い本だ。ヘーゲルが37歳のときに記した代表作である。恥ずかしながらこの本は5000円もの大枚をはたいて購入してはみたものの、一度も読んだことはなかった。
以前、詩人の河村悟から「ヌース理論は理性だからダメだ。ヘーゲルの絶対精神ではダメなんだよ。」と手厳しく批判されたことがある。彼は決してポストモダンかぶれの人ではないが、詩人という立場上、理性的なもの、特に弁証法的な粗雑な思考形式を毛嫌いしていた。河村氏は思想・哲学に関しては生字引のような人物で、当然、わたし程度の知識量で彼に議論を吹きかけるなど自殺行為も同然だったが、カチンときたわたしは「理性には人知れぬ理性というものがありますよ」と言い返した。幸いにもそのときは彼がニヤリと笑っただけでことなきを得たが(笑)、それ以来、わたしにとってヘーゲルは気がかりな存在となっていたのだ。しかし、本格的にヘーゲルは読んだことはなかった。いざ読もうと思ってもなかなか触手が伸びない。ヘーゲルについて知ってることと言えば、弁証法と絶対精神という言葉。遅咲きの哲学者だったこと。カント哲学の批判的継承によって近代哲学を集大成した哲学者。ヤコブ・ベーメの思想に大きく影響を受けていたこと。ルター派の熱心な信者だったこと。このくらいである。
ヘーゲルはもともと弁証法のアイデアを17世紀の神秘家ヤコブ・ペーメからパクっている。自己意識の本性を徹底的に追及していくなかで、彼はそこに神の自己意識を合わせ見た。ヘーゲルの弁証法の基盤はこの人間の自己意識と神の自己意識の弁証法的展開にある。「一切のもののなかに神の三位一体をとらえ、あらゆる事物を三位一体の露呈ならびに表現としてとらえる」というヘーゲルのベーメ評はそのままヘーゲルにも当てはまる訳だ。ヌース理論は基本的にはこの伝統的な弁証法の概念に他者性を取り込むことにより、「ペンターブ・システム」という概念によって双対化し、その運動を空間の対称性の拡張秩序へと転化させ、最終的には「観察精神」という一者へと止揚させていく。その意味では極めてヘーゲルっぽいのだ。
それにしてもこの本のエンディングはいい。やる気がみなぎってくる。
——目標となる絶対知ないし精神の自己知は、さまざまな精神がどのようなすがたをとり、どのようにその王国を構築したのか、という事柄に関する記憶を道案内人とする。その記憶を保存しているものとしては、偶然の形式をとってあらわれる自由な精神の歴史と、それを概念的な体系の形として示す「現象する知の学問」とがある。二つを一つにしたところの、概念化した歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩「友情」の一節にあるごとく、この精神の王国の酒杯から、精神の無限の力が沸き立つのだ。
新しい理性がやはり必要だ。心優しい理性。海のようにすべてを溶かし込む理性。それは男の感性と女の理性を併せ持ったもの。。優しくなければ理性ではない。だろ?
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 11 • Tags: カント, 河村悟