3月 7 2006
zavtone、再始動?
今日、懐かしい人物からメールがあった。90年代、日本で一番トンガッタ雑誌ではなかったかと思われるzavtone誌の編集長zato氏からのメールだ。zato氏の別名はGENERAL IDEA OF DIPLODOCUS(ジェネラル・アイデア・オブ・ディプロドカス)。すごすぎ。。。
zato氏紹介のサイト→
http://www.harmonium.jp/works/works.html
zavtoneは1997年から約3年間発行され、2000年廃刊にになった。それまでの雑誌の常識を覆し、ほとんどのページがCGグラフィックや写真で埋め尽くされたグラフィクアーティストたちのセッションフィールドのような場所だった。そのラディカルなスタイルは日本でのその後のトランスカルチャーの動向に多大な影響を与えたと聞いている。
わたしが最初にこの雑誌に遭遇したのは処女作の「人類が神を見る日」を持って、書店回りをしているときだった。全ページにわたってサイベリア的なハイパーリアルなグラフィックが4色刷りで網羅され、一見しても何の雑誌だか分からない。しかし、グラフィックの完成度は極めて高く、60年代後半のサイケデリックを90年代のデジタルテクノロジーでそのまま再生させてきたような異質なライブ感を持っていた。スキゾフレニアックな色使い、ブレイクビーツでたたみかけるその編集手法。エディトリアルセンスの斬新さに完全にKOパンチを食らった。
「こりぁ、カッコええわ。ヌースもこういう露出で行けたら最高やなぁ〜」と思っていると、しばらくして、友人の高橋徹氏からウソのような連絡が入った。
「zavtoneが半田さんの「人類が神を見る日」を英訳で連載したいと言ってますよ。」
zavtoneのグラフィックデザイナーたちは半数以上がアメリカ西海岸の連中らしく、zavtoneは数千部単位でアメリカの書店でも売られているバイリンガルマガジンだったのだ。高橋氏はすでにマヤ暦関連の記事をzavtoneに提供しており、その関係で、高橋氏経由で連絡が入った次第。
それがきっかけで、zato氏と知り合いになり、zatoセンスを気に入っていたわたしは「シリウス革命」の装丁デザインを全面、zato氏に委ねることに。シリ革をお持ちの方は是非、確認してほしいのたが、出版元の名称(たま出版)が超微視的サイズで配置されているのが分かるはずだ。これがいわゆるzavtoneセンスである。文字はデザイン構成内部のラインと見なされ、グラフィックデザインに沿ってレイアウトされる。たとえテキストの内容が読みづらくても知ったこっちゃない。まぁ、当時も、zato氏は周囲から、テキストが読めない。年配者を考慮しろ。などいろいろな批判を浴びていたようだが、ガンとして自分のポリシーを貫き通していた。雑誌においてテキストはデザインの一部にすぎない——まさに、アンチオイディプスを地でいくような大胆な発想。古い神にはもう手の付けられない不良息子である(笑)。
そんなzato氏であったが、「人類が神を見る日」のテキストに関しては、文字を心持ち大きくレイアウトしてくれていた。zato氏曰く「これはテキストが生きているから。。」その言葉がとても嬉しかったのを覚えている。
さて、zato氏からのメールの内容についてだが、それはこのブログで公表するにはまだ時期尚早だろう。まぁ、何らかの仕掛けをzato氏が依頼してきたということのみに止めておく。いずれにせよ、嬉しいコンタクトだった。新生zavtoneの始動に期待しよう!!
10月 18 2006
黒衣の旅人
河村悟氏の新しい詩集『黒衣の旅人』が2週間ほど前に出版社の方から届いた。ここのところ仕事に忙殺されて落ち着いて目を通す時間がなかったが、ようやく仕事も一段落。今日は、じっくりと腰を落ち着けて、ページをめくっている。
僕は文学のことはよく分からない。しかし、この人の詩の凄さだけは分かる。。この人の詩はまるで呪文だ。音読すると周囲に何かが集まってくるのを感じる。数千年もの間生き続けている言葉たちに宿った言霊がまるで夜集会でも開くかのようにぞろぞろとどこからともなく集まってくる。連中は独特の臭いを持っている。最初に漂ってくるのは楽園の薔薇のような香り。甘く香しい。しかし、それに酔いしれると危険だ。すぐさまその芳香は腐乱した肉の臭いに変わる。薔薇の木が屍肉を養分として育つというのはよく言われていることじゃないか——その土壌の中に折り重なった二人の男女の死体が埋まっている。アダムとイブだ。言霊の中では死霊と聖霊は見分けがつかない。だから言葉は怖いのだ。
牢獄、斬首、腐肉、死体、傷口。。。痛々しい言葉の列。血生臭さとともに、自らのはらわたを自らの手で何の感情も抱かずつかみ出しているような徹底した冷血の眼差し。そこには善悪を超越したした絶対善即絶対悪としての一者の姿が垣間見える。そういえば、河村氏はその昔「僕は一元論的グノーシス主義なんだよ」と言っていたっけ。存在の前姿は神の寛大さを持ち、後ろ姿は悪魔のように残虐だ。それは河村氏の作品にもそのまま当て嵌まる。世界を世界として繋ぎ止めるポロメオの環。その禁断の結び目を垣間見た者だけが知る詩の秘密。真言としての詩を支えるある秘密の構造。河村氏の詩は詩というよりはまるで物理の方程式のように徹底した計算のもとに立ち表れた記号のように見えないこともない。おそらく河村式修辞学というのがあるのだろう。この特殊な修辞学は詩の論理を支えている詩の精神に依拠している。それはおそらくヌースがいうところのイデアではないのか。僕はずっとそう思っている。
詩を詩たらしめているイゾモルフィスム(類似同形性)。おそらくそれは神の身体形成を貫く絶対的秩序である。その秩序が肉や骨として結実したもの。それが肉としての身体であるはずだ。諸物、諸世界は転倒している。詩の精神はそうした諸転倒の重みをその全面に背負って成り立っているのではないか。存在の重みがジリジリと言葉の背骨に乗りかかる。グニャと不気味な音を立てて曲がる精神。存在の圧力で発熱し、いたるところに火傷を負った精神。斬りつけられ、いたるところから出血を繰り返す精神。そんな精神が饒舌なはずがない。河村氏はいつも言っていた。ほんとうの詩は聾唖者が発する吃音のようにリーディングされなければならない——。詩が言葉の重みに逆らって浮遊する霊の苦悩、苦悶であればそれは当然のことだ。種子の中に植物の全成長の履歴を見通す目——言葉のうごめきの中に創造のイデアは暗躍している。しかし、イデア自体は言葉ではあり得ない。種子の中に種子ではないものが混入している。それを乖離させることは可能なのか? 言葉をすべてはぎ取って、果たして剥き出しのままの詩の精神を僕らの知性の前にえいっと取り出して見せることが可能なのか? 言葉と精神が分離不能な形で浸透し合っているとすれば、言葉をはぎ取った精神は役立たずのクズ鉄となりはしまいか。それをどう回避するか、それがこれからのヌースに課された試練だ。
言葉の通底器、それは言葉を運ぶものでもあり、言葉を生成していくものでもある。それを見い出すことができれば、おそらく僕らは言葉から解放される。言葉からの解放とは能動者への転身である。『黒衣の旅人』はそのとき初めてその転身によって重々しい衣布のすべてを脱ぎ捨てることができるはずだ。その下に隠された美しい裸体。血球の中の鉄と星々の中の鉄との通路を見出すこと。鉄とは詩の精神の凝縮された場所である。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 3 • Tags: グノーシス, 河村悟, 言葉