12月 13 2018
小林秀雄はほんと進んでた人だなぁ、とつくづく。
物質と精神のつながりを思考する材料として、量子論は格好の素材であるにもかかわらず、量子論の哲学を語る学者は少ない。特にベルクソン=ドゥルーズの系譜にあるに哲学ならば量子論は避けては通れないところであるはずなのだけど、ネットで検索をかけてもほとんどいない。
日本だと小林秀雄ぐらい。小林は哲学者ではないけど、50年以上前にベルクソン論を書いて、そこでベルクソン哲学と量子論の関係を考察している。驚くべき先進性だ。当時はかなり酷評されたらしいが、個人的にはもっと研究されるべき価値ある論考だと思う。
小林は岡潔との対談で、自分の書いたベルクソン論について、自分が無学で力尽きたと言っていた。こんなセリフ、今哲学やってる人たちからは多分聞けない。彼は戦っていたんだろう。誰と? もちろん、人間と。それが哲学の使命ではないのだろうか。興味がある方は是非、一読をおすすめする。
小林はこの論考の中で知覚の二重性について何度も語っていた。主観と客観。質と量。連続と不連続。それらは相互に絶対に相容れない空間で活動している。しかし、いまだに私たちは、それを区別することのできる空間概念を持っていない。この不明瞭さが人間を作っている。
こういった知覚の二重性と量子論は密接に関係している。ヌーソロジーがバイスペイシャル(時空と複素空間の二重性)認識を訴えているのも、そのあたりの理由からだ。主観の元となる主体は時空にはいない。見るものである主体は奥行き=持続として収縮し、見られるものとその根底で連続的につながっている。
小林も、ベルクソンを受けて次のように書いている―持続するものという共通な糸が〔物質と精神の〕両者を結んでいるのであり、精神の持続と深い類似を持った或る種の持続が、又、物質の本性を成す。
この思考線に沿って、根気強く空間を開いていくこと。そうすれば、僕らは物の秘密に触れることができる。又、人間を脱-人間化させていく方向も、その方向にしかないだろう。
12月 31 2018
短めに、年納めのご挨拶を
今年は何と言ってもハイデガーとの出会いが一番大きかったね。この歳になってハイデガーを読むというのも、何とも間の抜けた話ではあるんだけど、いずれにしろ、ハイデガーから吸収した養分は、来年から再開するヌースレクチャーにしっかりと反映されてくると思うのでお楽しみに。
あと、今年はヌース映画本の出版が本決まりしたのも大きな前進だった。この映画本は、以前「不思議ネット」というまとめサイトにUPされた『君の名は。』についての僕のインタビュー記事が人気を博し、この路線でヌーソロジーへの一般向けのガイド本は作れないか、という江口氏(『シュタイナー思想とヌーソロジー』の仕掛け人でもある音楽プロデューサー)の提案でスタートしたもの。
原稿の方は今年の初めにはほぼ出来上がっていたんだけど、出版社が決まるまでがいろいろと大変で、右往左往した挙句、ようやく『バシャール』本で有名なVOICE社が出版してくれることに。快諾頂いたVOICEのO社長には心から感謝している。出版予定は一応今のところ来年の春先になっているので、早ければ3月には書店に並ぶんじゃないかと思う。
この映画本、ヌーソロジー本にもかかわらず、ヌース用語が一切出てこないという画期的な本。おまけに元、臨床心理士やっていた星乃さんと、現在は「ナゾロジー」というサイトのディレクターをやってるマキシムちゃんという女性軍二人が参加してくれたこともあって、今までのヌーソロジー本には見られないような分かりやすい、かつ、POPな露出になってます。
取り上げている話題も、AI問題やポストモダン以降の若者たちの心理分析など、スピ本というより、どちらかというカルチャー本っぽい仕上がりかな。この本でヌース人口を一気に増やそうという企んでいるわけだけど、果たして思惑通りいくかどうか・・・。
映画本で焦点を当てたのは、ヌース本ではおなじみの「人間の最終構成」というやつ。ここ数年で浮き彫りになってきたのは、まさに「人間の最終構成」の風景じゃないかね。語弊がある言い方ではあるけど、これは「ヒューマニズムの崩壊」を意味してるんだと思うよ。
グローバル経済の身勝手な理屈によって経済的な貧困に追い込まれる人たち。独占資本が原因となって引き起こされた戦争で生存権を奪われる人たち。日本はと言えば、民主主義によって作られた政府が、表現・集会・結社といった基本的人権を平気で侵害するような動きを見せている。
こうした情勢は、どれもこれもが近代のヒューマニズムの名の下にもたらされてきた結果だ。だけど、今起きていることは明らかにヒューマニズムが標榜してきたものとは反対の現象で、ヒューマニズム自体が資本主義的ファシズムが用意した隠れ蓑にすぎなかったことに多くの人たちが気づき始めてる。
じゃあ、ヒューマニズムに対する信仰心が消え去っていくとき、僕らはいったい何を指標に、どこへ向かえばいいのだろうか。
ヌーソロジーの思想的立場は、一見すると、現実社会のヒューマニズムとはほとんど縁もゆかりもない。ただただ近代が作り出した科学的世界観に変わる新しい世界観の構築に勤めてるだけと言っていい。
それはなぜかというと、僕らをますます狭いところに閉じ込めようとしている力が、単に政治や経済の体制から発しているものではないと考えているからだ。
変わらなくちゃいけいないのは人間自身だ。人間という体制だ。何がこの人間という存在を生み出しているのか。それを見出さない限り、人間は常に新しいタイプの破綻を作り続けるしかない。
まぁ、このあたりがハイデガー哲学の問題意識とかぶるところではあるんだけど、僕らは、このあたりでヒューマニズムの抑圧から逃れて、人間ではないものを作っていく想像力を持たないといけないんじゃなかろうか。
もちろん、その成就には長い年月がかかるだろうけど、そこに向かって諦めずに地道に「人間ではない者」としての思考を開始すること。ヒューマニズム自体に巣食う欺瞞を払拭する方法はそれしかないと思うよ。
あらら、話が思わぬ方向へ。このあたりは話し出したらキリがないので、ヤメ。
そういうわけで、来年も亀のような歩みが続くと思うけど、ヌーソロジーをよろしくお願いします。
※下写真は今年のヌースバンケットときのもの。福岡ヌーソロジー研究会の高木純子さんのサイトよりお借りしました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: ハイデガー