10月 3 2005
精神の病とは社会の病
カフェ・ネプで「統合失調症」の話題が上っていた。分裂病がこの名称に変更されたのは3年ほど前だったか。わたしは約20年ほど前、強度の分裂病に襲われた経験がある。いや、正確にはそれが果たして分裂病だったのかどうかは分からない。原因不明の、それも、突発的に襲った錯乱症状であった。今でもそうだが、精神の病の分類はかなり曖昧なもので、当時は何の病気なのか分類のしようがないので、とりあえずは分裂病のカテゴリーに投げ込まれたというのが実際のところだった。
分裂病の症状には大きく分けて陽性症状と陰性症状と呼ばれるものがある。「陽性症状」とは、妄想、幻覚など本来ないものが出てくることだ。一方、「陰性症状」というのは、逆に本来あるべきものがない状態のことをいう。「陰性症状」に入ると、意欲や気力が低下し、口数が少なくなる。記憶力や集中力、さらには学習力も落ち、感情反応が鈍り、考えもまとまらなくなる。一般の向精神薬は「陽性症状」は何とか押さえることができるが、「陰性症状」を快方に向かわせることは難しい。
ただ、厄介なのは、「陽性症状」を軽減するための向精神薬の投与が「陰性症状」をより悪化させる作用があるということだ。これはわたしの経験からも言える。薬を与えられるたびに、気力や思考力が一気に去勢される。つまり、薬が精神をより病ませていくことは否定できない。わたしは入院中、薬の投与を拒否したが、それは許されないことだった。無理矢理、口に押し込まれる。それはかなり陵辱的なことで、そうした医療の権力に耐えられなかったわたしは、作戦を変え、従順に薬を飲むふりをして、すぐに便所で吐き出すという技を覚えた。よくスパイ映画に出てくる手法である。
日本の社会は病人に対してとりわけ冷淡な社会である。肉体の病は他の動物にもあるが、精神の病は人間特有のものだ。それは精神の病がラカンのいうように言語の病であるからに他ならない。とすれば、精神の病とは社会の病なのだ。社会全体が自分の身体性における病として取り組まなければ、この手の病はますます増え続けるだろう。実情は惨憺たるものがある。現代社会は精神の病を持つ者に対して、さしたる根拠もなく、恐怖心と差別心を抱く。日頃、人権がどうのこうの口うるさいあのメディアでさえ、何か猟奇的な殺人事件などが起こると、すぐに、加害者は統合失調症で病院に通院していましたなどと、平気にレポーターに語らせる。全く無知蒙昧な連中である。君らの無思慮な報道のせいでどれだけの統合失調症の人たちが世間に白眼視されているのか分からないのか。
精神科医もひどい連中が多い。だいたい精神を病んだことのない連中に、精神の病が理解できるはずはない。特に日本の精神医学の現状は最低ではないのか。薬で治すことしか考えてない連中ばかりだ。入院患者は家畜同然の扱いで、社会からの隔離を目的に精神病棟の中で薬漬けにされて飼われている。狂気に寛容ではない社会。そういう社会の方こそ病んでいる。再度、言うが、精神の病とは社会の病なのだ。
11月 8 2005
広告記事を書くというお仕事
新著のアイデアを練り始めたものの、早速、仕事の方の広告原稿の締め切りが迫ってきた。日常的な作業をやりながら、宇宙や形而上に思いを馳せるのはかなりしんどい。使う脳みそが全く別々だからだ。しかし俗と聖を同等の価値として見ることができなければトランスフォーマーとは言えない。俗にたっぷりと浸かって、聖空間を恋しがり、聖空間の中を思う存分遊び回ったら、今度は生活のために一生懸命汗を流す。こうした振り幅の広い反復があってこそ生きることが輝いてくる、と言いたいところだが、やはり頭の切り替えはなかなかスムーズには運ばない。さて、どのようにこの難所を乗り切るべきか。
現在、わたしが担当しているのは某雑誌に毎月連載している2Pの広告ものだ。ヌーススピリッツでお世話になっている精神科医のS博士へのインタビュー記事を要領よくまとめるのがメインなのだが、インタビュー内容が詰められてないせいもあって、テープに収録された内容はいつも「破壊された器」のような状態である。これらを一字一句書き起こし、S博士の発言意図と会社サイドの広告効果のどちらも損なわないように再構成して編集すること。これはある意味、異なった言語間の翻訳作業に似ている。最近読み出したベンヤミンの影響もあって、わたしはつねづねこうした編集の仕事を「器の再生」の疑似体験として楽しまなければならないと考え始めた。ベンヤミンの翻訳論には次のようにある。
すなわち、ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自分の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのではなくてはならない。
「翻訳者の使命」
ベンヤミンはこうした概念をカバラの「シェビラート・ハ=ケリーム(容器の破壊)」から想起している。自社の広告記事の編集ごときにカバラまで持ち出して来るとは、何とも大げさな話だが、事の本質は外していないはずだ。編集作業を行って常々感じるのは、このベンヤミンの言葉が、翻訳という異国語間のトランスレーションのみならず、自己の語りと他者の語りの間のトランスレーションにおいても十分に言えるのではないかということだ。インタビューでも対談でもよいが、それが一つの記事としてまさに思考の中で編集されようとするとき、そこで話し手と編集者(書き手)の世界は必ずぶつかり合い、ガチャガチャと必ず音を立てて互いの形を触感覚で模索しようとする運動が起こっているのが分かる。結果的に明瞭な意味伝達は、それら両者の凸凹がピタッとはまったときに起こる。この張り合わせが不十分だと、印刷された文字さえもぼけて見えるのだ。そうした奇跡的な接着面の形成は、やはり対岸で呼びかけている他者への愛情がなければ難しい。果たして、わたしに愛はあるのか。。うーむ、難しい問題だ。とにかく、どんな仕事もまた、天上的作業となり得るのだ。フレキシブルになること。
By kohsen • 10_その他 • 0