2月 7 2006
変身
「今朝、コウセン・ハンダがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な蝋人形に変わっているのを発見した。」………変身。。。
朝起きるとどうも様子が変なのだ。起き上がろうとしても体が動かない。寝返りをうとうとしても横に姿勢を変えられない。うとうとから脱して、ようやく事情が呑み込めてきた。腰だ。腰がやられている。腰がギックリ腰状態になっているのである。嗚呼〜何たるざま。
老体や 起きて気がつきゃ ギックリ腰。。最低。
2年前に本物のギックリ腰を味わったが、あれは不用意にしゃがみ込んだとき襲ってきたものだった。ピシッと腰部に不気味な音が走り、そのままヘタヘタと床に這いつくばってしまったっけ。。
今回のやつは違う。睡眠中に襲ってきていたのだ。一体またどうして?Hな夢でも見て張り切りすぎたか?いや、そんなことはない。記憶に無いぞ。無理な姿勢で寝ていたか?いや、それも違う。最近、寒いのでねぞぅはいいはずだ。いやはや、一体なんでこんなザマに。。。
自分の意志通りに体が動かせないというのは、本当につらいものだ。——老いの自覚とは、自身の持つ身体イメージと事実としのて身体との距離感としてやってくる。老いは、まさしくその心身乖離の矛盾なのだ——。うぅぅ。腰が。吉本隆明を気取って偉そうなことをうそぶいてみても腰は治らん。何と思索は身体に対し無力なのか。。こういうときは暖かいものでも飲むに限る。
会社に欠勤を電話連絡したあと、ヌースビーズ400粒のベルトを腰に巻き、おそるおそる階下へとコーヒーを飲みに行く。嗚呼、何てこった。すべてが老人のように事が進む。とぼとぼと台所をうろつき、震える手でコーヒーパックをつかみ、曲がった腰つきでポットのお湯を注ぐ。。
「ばあさんや、今、何時だい?」
「山形やの海苔だよ。」
「じいさんや、今、何時だい?」
「山形やの海苔だよ。」
懐かしのCMが一瞬、脳裏をよぎる。ふと自分を見ると格好もよくない。綿入りのちゃんちゃんこを着てるではないか。腰が回せないのだから、脱ぐこともできない。今日は1日、このちゃんちゃんこを着て、曲がった腰で、とぼとぼと活動しよう。老いても尚、ぬうす。ぬうすは死なず。。。うぅぅぅ。
2月 19 2006
儀式的なものの彼方に
姪の結婚式に出席した。ネクタイとワイシャツが死ぬほど嫌いな私でも、Tシャッにジーンズでは姪の門出にあまりにも礼を欠くということで、ダブルのブラックスーツを新調。朝、着慣れぬ礼服に袖を通して、「おっ、わしってフォーマルも行けるじゃん」とちょっと上機嫌で、会場のZホテルに足を運んだ。
正装して人々が集まる場所には独自の雰囲気が生まれてくる。服装とは怖いものだ。この独自の雰囲気の場が、個体の出しゃばりを希釈する。そして、誰もが類的存在として個を剥奪され、そこによっこらしょと正体不明の神が降臨してくるのだ。
かくして、神主さんの祓詞(はらいことば)の奉上で結婚式が始まった。
カケマクモカシコキぃ〜、イザナギノオオカミぃ〜、ツクシノヒムカノぉ〜、タチバナノオドノアワギハラニぃ〜………ハラエタマヒぃ〜、キヨメタメヘトぉ〜。。
姪っ子におめでとう。と一言心の中でつぶやいた後、例の調子でわたしの悪い習癖が顔を出す。この神主さんちょっと声のキレがないなぁ〜。昨夜は行きつけのスナックのカウンターで若い女の子、口説いとったんかなぁ〜、とか、左側と右側の巫女さんのどっちがかわいい?右やな右、とか、とにかく頭が俗なことしか考えていない。挙げ句の果てには、この式場に列席している人たち誰も、この祝詞の意味を知らんやろうなー、とか、とにかく儀式というものが大の苦手なわしは、普段以上にたわけ者に変貌してしまうのである。ガキと言われてしまえばそれまでだが、だってそうだろ、世の中を見る限り、ほとんどの人が神なんて信じてはいない。にもかかわらず、未だ、冠婚葬祭には神さまが幅を利かせて、人々はそれらを有り難がってポーズだけの礼を取る。それが、日本人としての霊統に対する敬虔さからくるものであればいいが、ただ漠然と機械的に引き継がれてきた習慣に従っているにすぎない。無自覚に神に頭を下げることと、無自覚に神を装うことは同じコインの表と裏である。これが「和」の精神の一番の欠点だ。
確かなことは分からないが、神殿や祭壇に別に神さまがいるわけではなかろう。これらの仰々しい飾り付けには、当然、様々な象徴的意味が盛り込まれていようが、すべては言ってしまえば仮儀(けぎ)である。本質ではない。仮儀といえども、それらが古来より遵守されてきた「形式」である限り、本門としての幾ばくかの力が宿ってはいるのかもしれない。しかし、そうした御利益は、儀式を受ける側の聖なる心に働きかけてくるのであって、俗心まで面倒は見てくれない。別に俗が悪いと言ってるのではない。俗の中に聖を見ることこそがそもそもの「聖」だろ、と言ってるのだ。その意味で言えば、わしらは、いかにも「みなさ〜ん、ここに聖が在りますよぉ〜」と言ってるような場所に「聖」を見る必要なんぞこれっぽっちもない。それは、究極の俗以外の何物でもない。
オウム事件のときの日本の宗教界、あれにすべては現れている。日本の宗教界はとっくの昔に死んでいるのだ。アクチュアルに、今の人間の苦悩に対処して行こうと考えている坊さんなどいない。中には尊敬すべき人材もいらっしゃるだろうが、まぁ、お経を有り難く読み上げることのできるプロというのが、今のお坊さんたちの定義ならば、それはそれで仕方ないことだ。お坊さんにだって資本主義社会人としての生活がある。(税金ちゃんと収めてくださーい)
儀式的なものが軽視されていく世の中で最も大事なことは、儀式的なものを守り抜くことではないと思う。儀礼的な行為の中に一体、いかような精神が秘められていたのかをもう一度指し示していくことだ。そのためには儀式の仮面を一度すべて剥いでみるのもアリだろう。無条件に神や仏を祀り上げることは、むしろ神仏に対する最大の不敬ではないのか。というのも、神は本来、友のようにして語られるべきものだと思うからである。
ということで、ゆいちゃんや、旦那さんを神さまと思って、幸せになってくださいよ。。。
父と子と聖霊の御名において。。ラーメン。
By kohsen • 10_その他 • 3