10月 5 2005
存在の皮膚
統合失調症と聞くとその体験があるだけに、とてもひとごとでは済まされないので続けて戯言を書いてみる。
統合失調症の大脳生理学的な研究はまだまだ進んでいないと聞くが、ヌース理論がらみで、その生化学的な原因について面白い説を展開していたのが、デビット・ホロビンという人である。彼はその著書『天才と分裂病の進化論』の中でリン脂質と分裂病の関係について語っていた。
リンと聞けばピン!とくる人もいるはずだ。ヌース理論ではリンのことを常々、「彼岸(涅槃)の光」と形容してきた。というのも、リン原子のイデアはヌース理論解釈では、他者側が見る光の場所そのものに当たるからだ(Ω9の入口)。これは自己側にとっては言語機能の基礎、すなわち単語形成の場所に当たり、他者そのものにおいては意味形成の場所に当たる。その意味で、リンはラカンの言葉で言えば象徴界と想像界を接合させる重要な接着剤の働きを持っていることになる。同時に、ヌースに登場するPSO回路に即してみると、この位置は電気的な力を作り出すもと(上位次元)ともなっている。このことから、ヌース理論においては、人間の生体内で行われているエネルギー代謝とは、精神構造全体における言語の代謝作用と同型対応していると考えるのである。つまり、神の生体内では、言語機能がそのエネルギー循環を司っているということだ。実際の生体内でこの代謝作用に重要な役割を果たしているのはATP( アデノシン3リン酸)であるが、これは実際、『生体内のエネルギー通貨』とも呼ばれている。
また、リンはエネルギー循環だけではなく、リン脂質として細胞膜や皮膚の形成にも深く関わっている。ホロビンの説は、分裂病の生化学的な原因をリン脂質の不足にあるとしている。というのも、脳内のニューロンの樹状突起の開閉を行ない電気的な調整を行っているのが、このリン脂質だからだ。つまり、ホロビンはリン脂質の不足からくる脳内の電気調整の支障を分裂病の原因と考えているわけである。
このままでは、単に唯物論的発想で、ヌース的には「そりゃ本質じゃないべ」となってくるのだが、ホロビンの説が面白いのは、こうしたリン脂質の摂取が人類の歴史的変遷において2度大きな変化を被っていると訴えてくる点である。一度目は狩猟型文化から農耕型文化への移行期、2度目は中世から近代への移行期である(正確には産業革命前期)。ホロビンによれば、この二つの時期に、食生活の激変から、いずれも摂取されるリン脂質に大きな変化があったのだという。言語機能との絡みで考えれば、農耕型文化への移行期には文字や記号の使用が出現しており、産業革命前期には印刷技術が飛躍的に進歩し、文字が多くの人に共有され始めた。こうした時期は、ヌースで「無意識のクロスロード」と呼んでいる時期に当たる。
「無意識のクロスロード」とは、無意識進化の流れが表相次元を交差していくところに現れる精神構造自体が本来持っている基底的な十字路のことだ。それは、一つの交替化次元においては4ケ所存在し、元止揚→思形→定質前期→定質後期→次の元止揚の「→」の部分で顔を出してくる。つまり、無意識構造の様式が切り変わっていくところに出現する次元境界のようなものと考えるといい。あくまでも西洋史を中心とした見方ではあるが、文明のスタイルはこの「無意識のクロスロード」で、そのときどきの天才たちを輩出し、大きな変化を被ってきた。こうした天才たちの出現の背景に分裂病が関わっていることは周知の事実でもある。
このように、歴史的背景も含み合わせて考えたとき、ホロビンのリン脂質をめぐる説はとても興味深いものに見えてくる。言うなれば、分裂病とは自他をめぐる「境界の病」であり、精神的身体における皮膚疾患と言っていいものなのだ。しかし、この疾患は同時に未だ顕現化していない等化力を、ときとして無意識のクロスロードに横溢させる。存在の皮膚から、神の体液が一瞬、にじみ出してくるのだ。その汁気を感受したものが分裂病者と呼ばれることになる。ヌース的に言えば、この症候群は歴史プロセスにおいて4度ある。3度はもうすでに経験済みだ。まもなく4度目がやってくるだろう。存在の皮膚はそのとき脱皮をはかるはずである。
10月 13 2005
φの貨幣
楽天によるTBSの株式買収が世間を騒がせている。ライブドアとフジテレビの時とはパターンは違うが、TBS側の困惑は隠せない。昨日の会見でも、もともと自分たちの縄張りである放送メディアにどうして新参者の青二才が金にものを言わせて首を突っ込んでくるんだ、というムカつきの表情が見て取れた。
新参者は熱意を持って言う。あなたがたの体質はもう古いのですよ。わたしと組めば、もっと儲けられるのだから協力しませんか。しかし、旧体制側はそう簡単には首をタテに振ることはできない。もちろん、そこには彼らの自我防衛が働いているだろうし、放送メディアを構築してきた自負とそれを支えてきた社内史への敬意もあるだろう。しかし、彼らのムカつきの本質はもっとシンプルな感情にあるのではないかと思う。記録された歴史のウラには必ず記録されていない歴史があり、記録された歴史よりも記録されなかった歴史に彼らは価値を感じている。ざっくばらんに言えば、諸先輩と徹夜で討論したこと。同僚たちと飲み屋で夢を語り合ったり、愚痴をこぼし合ったりしたことなどなど、過去のこうした、職場内でのたわいのない日常的な感情のやり取りが、彼らに一つの共同体としてのかけがえのない価値を感じさせているのだ。確かに、そこには金銭には換算できない「聖なる何ものか」がある。しかし、資本の力は、そうした資産表に上がらない、つまり外延量として弾き出すことのできない価値を価値として見なすことはない。たとえ「いっしょうけんめいやりました。」と言っても、「いっしょうけんめい」という想いや行為は消去され、財として何が残ったのかだけが換算されるのだ。資本にとっての価値とは、土地、建物、所有株式、銀行預金、他の資材全般等に付けれられた価格なのだから。こうして、資本の運動の名のもとに「聖なる何ものか」は跡形もなく棄却されて行く。
さて、問題は、こうした資本の力が持ったすべてを一様の数字ではじき出す欲望と、人間が持った情動的な欲望との間に横たわっている相容れないギャップである。この先資本主義がより発展して行けば、このギャップはますます大きくなっていくだろう。これはヌース的に言えば、オリオン(象徴界)とプレアデス(想像界)との間に生まれているギャップにひとしい。いや、より正確に言えば、そのギャップこそが僕らに「心の価値」とか「共同体の価値」とかいったものを生起させているものなのだ。そう、このギャップとはほかでもないシリウス(現実界)のことである。貨幣の力が猛威を振るえば振るうほど、心の中に何か大事なものを失っていく感覚がわき起こり、僕らは真の価値の復活を必要以上に標榜するようになる。しかし、それは容易いことなのだ。単に不在に対して不在を泣き叫ぶだけのことなのだから。オリオンとプレアデスの関係はこうした転倒した愛のかたちのもとに今やSM的な関係にあると考えていい。貨幣は常に勃起し、それによって喪失させられていく価値を嘆くことによって人間は濡れる。全くあほらしい。これでは存在のオナニーじゃないか。確かに、サディストとマゾヒストが出会って恋に落ちれば、それなりの快と幸福はあるだろう。これはこれで一つのバランスの在り方には違いはないのだが、いつまでもSM的な関係で愛し合っていては体が持たない。真の愛を達成するためにはこうした性愛ではなく、別のスタイルの性愛を持たねばならない。
神は真の能動者である。その意味で言えば、人間は無知な受動者だ。神は自らが作り上げた世界を人間に純粋贈与として捧げたはずなのだが、いつの間にか人間に信仰という見返りを要求するようになってしまった。神からの一方的な愛の告白と、愛されるがままで、愛することを能動として返せない人間の愛。しかし、しかしだ。ときに愛される者が突如として愛する者に変貌することがある。そのとき受動的なものは能動的なものに変身するのだ。ラカンはこれを「奇跡」と呼び、そこにあのナゾの記号「φ(ファイ/黄金比)」を置いた。一体どうして愛される者が愛する者へと変容できるのか。それは果実に手を伸ばそうとしたとき、果実側からもまた手が出てわたしをつかもうとするようなものだと——。
奇跡が必要である。地上を這い回る貨幣ではなく、空へと舞い上がるφの貨幣の登場が必要である。そのとき、今まで女とされた大地は男になり、男とされた天空は女になるだろう。女が空からやってくる日は近い。あのゲブとヌートの交わりが始まるのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: オリオン, プレアデス, ラカン, 貨幣, 資本主義