3月 30 2005
他者の顔
昨日はトーラス氏とチョコボ氏に続き、夜中、東京ヌースレクチャーのメンバーでもあるS氏とG氏が連れ立って来襲。閑静な住宅街の片隅にあるアカデメイア事務所は、一瞬にしてむさくるしい男どもの寄宿舎と化した。
トーラス氏とチョコボ氏の来福は前もって連絡を受けてはいたが、S&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)まで来るなんて寝耳に水。おまえら社会人なんだから、人の所に泊まりにくるときはちゃんと前もって電話の1本でも入れんかい。最高のホスピタリティーで迎えてやりたくても、これじゃ寝床の用意もできんやないかー。ということで、昨夜は二つの布団を中年男4人でシェア。トーラス氏とチョコボ氏には気の毒な一夜だった。この四名様ご一行、今晩もここアカデメイア事務所に宿泊の予定。今(午後6時現在)は、近くの二日市温泉というところに行って留守だが、おそらく、そろそろここが我が家であるかのような顔をしてワイワイガヤガヤと戻ってくることだろう。すでに今夜のスケジュールも整っている。夜は全員でワールドカップ「日本VSイラン戦」を見ながら騒ぎまくり、そのあとは、すき焼きパーティー。その後、ヌース談義。たぶんS&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)の二人は「激論!朝まで生ヌース」に突入するはずだ。
ヌースのレクチャーを長年やってきたことによる財産。それは人である。ヌースのレクチャーには老若男女を問わずいろいろな人がやって来る。経営者、大学の先生、学生、霊界おばちゃん、主婦、プータロー、アーティスト、お坊さん、OL………本来なら、絶対に交差しないような人種同士が、ここでは交差し合い、特に2次会では、互いの人生観などを夜遅くまで語り合う。某放送局でやっている「しゃべり場」のもっと濃いやつと思っていただければよい。
考えてみると、日本では、宗教団体の会合以外にこういった場所がない。年齢も、職業も、趣味も、それぞれが抱えている日常的な問題意識も全く違った人々が、一同に集まり、宇宙のこと、人間のこと、未来のこと、その他もろもろの等身大の形而上学について、忌憚なく語り合う。みんな主張はバラバラだ。しかし、誰一人、我を通そうとする者もなく、ときに口角泡を飛ばしてやり合うこともあるが、和やかで楽しい時がすぎていく。こうした調和は実に心地がよい。そこには無数の生きている無名性の顔がある。笑う顔、物憂げな顔、眠そうな顔、おどけた顔、不機嫌な顔、怪訝な顔……これらの顔はどこからやってきたのか。そして、これらの顔はどこへ行ってしまうのか。そんなことを考えていると、ベンヤミンではないが、やっぱり、みんなの顔が無数の星座に見えてくるのだ。語らうことなくして生はあらず。語らうことなくして宇宙はあらず。語らいは星と星の間に引かれた線だ。
ちなみに、古代エジプトの神オシリス(Osiris)とは、os-irisたくさんの目という意味でもある。。他者の顔貌とはヌース理論においては神々に等しい。……… しゃーないなぁ。S氏とG氏もせっかくはるばる遠いところから訪ねて来てくれたんだから、優しくもてなしてあげんとね。朝までヌース………、わたしも付き合うとするか。。。
4月 10 2005
スピノザ効果
今日は、昼近くに起きた。外は昨日と打って変わって雨模様。花見の予定を組んでいた人たちには残酷な天気である。近くのY電機からバソコン用の部品を買ってきたあと、スピノザの『エチカ』を書棚から取り出し、久しぶりに読書の時間を持った。
しかし、日曜日の午後に何でまた『エチカ』なんぞ古めかしい哲学書をほじくり出してきたのか——。それは、最近、ヌース理論会議室の方に顔を出されたgnuさんという方の一言がなかなか頭から離れなかったからである。曰く——ヌース理論は数学に幻惑されている。。。
ヌース理論に使われている数学的定式化が曖昧だ、とか、間違っているという批判であれば、今までも何度かはあったし、こちらもそれらの批判が正当であると感じれば、素直に訂正すればよいだけの話だった。しかし、今回のgnuさんの意見は視点が全く別のところにある。だからこそ、少し気になっていたのだ。会議室の方でのgnuさんとわたしのやりとりを読めばすぐに分かるが、この方はかなり数学ができる方だ。ただ、その割に、こgnuさんご自身は数学をあまり信頼していない様子である。このご時世、医者が医学を余り信じていないというのならまだ話は分かるが、数学者が数学の神を信じていない(少なくともそうした印象を受けた)、というのは結構、意外であった。
さて、ヌース理論は果たして数学に幻惑されているか否か?——ケイブコンパス当たりの解説に、たどたどしい群論や高次元トポロジーの用語が多用されてくるのは事実だが、しかし、それらの記号表現や論理構成に特別の魅力を感じているからというわけではない。ヌース理論に登場してくる「人間の内面」「人間の外面」と言った概念があまりに、群論や高次元トポロジーの世界と相性が良すぎるから、ただそれだけのことである。翻って、このことは、ヌース理論に登場する観察子という概念が、高次元トポロジーの諸概念に唯一実体概念(意味)を付与できる思考体系であることを暗示している。数学者たちが首をひねっている高次元空間にはれっきとした意味があるのだ。わたしの場合、こうした信仰の後押しをしてくれているのがスピノザ、その人なのである。スピノザはデカルトと同時期に活躍した孤高の哲学者である。ヌース理論が「幾何学とは一つの倫理学でなければならない」といつも言ってるのは、このスピノザがしたためた一冊の書物「エチカ」の影響なのだ。
スピノザは人間の認識には三種類のタイプがあると考えた。第一種は「想像知」(imaginatio)で、これは通常の感覚的認識を意味する。第二種は「理性」(ratio)で概念的認識である。第三種は「直観知」(scientia intuitiva)と呼ばれ、これは、概念的認識から、さらにその原因の認識へと進むのだ。言うなれば、認識の認識である。そして、この認識の認識において人間の知性は改善され、真に能動的な神的知性が誕生すると考えたのである。彼にとって、神との合一を果たすこの知性こそが幾何学が持つ本質的精神なのであった………。
果たして数学や物理学抜きで、精神と物質の間に横たわる黄金の環の姿を知性に再現しうるのか——それはやはり難しいだろう。このために、必要なのは新しい数学というよりも、数学に対する新しい解釈である。認識を認識するためのあの第三種の認識に深く関わる幾何学は、すでに既存の数学の中に網羅されていることをヌース理論は直感している。いくぜ、スピノザ!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 1 • Tags: ケイブコンパス, スピノザ, 内面と外面