1月 12 2006
3次元球面、再び。
今朝、ヌース理論の進展に関する大きなブレークスルーがあった。親父を近くの喫茶店にモーニングコーヒーを飲みに連れて行き、二人でテーブルに座っていたときにそれは起こった。前回のブレークスルーはPSO回路の全貌がマップ化できてきたときだったから、わたしにとっては2年ぶりの大事件ということになる。
さて、一体何が起こったというのか——実は突如として、明瞭に、疑う余地もなく、赤裸々に、くどい、何と3次元球面が見え出したのだ。これはわたしが得意とするハッタリではない。ほんとうに、確実に、あの憧れの3次元球面ちゃんがイメージできるようになったのである。サキイカ!、もとい、ユリイカ!
わたしの場合、思考のブレークスルーがあるといつもウヒャウヒャになって、周囲の状況も省みずタコ踊りをするのが習性となっているが、今回ばかりはことのあまりの重大さに全身から一気に力が抜けてしまうかのような感覚に陥った。呆気にとられたのである。そ、そうか、そうだったのか。。そうだったんだ。。ってな感じ。
感覚的なものと思考的なものが寸分の違いも見せずジャストフィットした一致を見せる。理性で描いた3次元とイメージで描いた3次元がほとんどの人にとって気持ちよくピッタリと重なり合うように、これまでコツコツと思考で象ってきた3次元球面と全く同じカタチをした空間が、今、現に目の前に存在する。。抜けた。。抜けた。。嬉しいという感情よりも、何か腹にず〜ん響くような無音のサイレンスで脳内がいっぱいになる。
この描像はおそらく確実に他の人にも伝達できるイメージである。その在り様を一刻も早く紹介したくてしようがないのだが、ここはズボンにチャック、じゃなくて、口にチャック。これほどおいしいヌースネタはそうそう出てくるものではない。現在執筆中の本の目玉として大事に保存しておくことにしよう。
そんなこんなで3次元球面。このブログにも過去に何度か登場してきたかとは思うが、これはトランフォーマー(ヌース理論でいうところの変換人というやつ)にとっての客体概念のようなものにあたる。僕らは3次元空間に居住し、モノを客体概念として持っている。モノの認識は言うなれば3次元空間から2次元球面を見ているようなものだが、3次元球面が見えるようになれば、それを見ているものは4次元空間への移動を果たしたことに等しい意味を持つ。。っつーことは、わたしはついにあの前人未到の4次元空間の大地に立ったということか。。確かに、回りを見渡してもアメリカの国旗もロシアの国旗も国連旗もない。あるのはただ3次元球面のみ。。やったぁ〜!!ここは自由の大地、約束の原始土地だぁ〜。イスラエルよ、パレスチナよ、そんなとこでセコセコやってないで、早くこっちに来い。
というわけで、次の本での4次元解説、乞うご期待!!
1月 17 2006
無限遠の劇場
思えば、もう20年ほど前のことだ。わたしを襲った突然の疑問、それは「わたしは動かずに、なぜモノの全表面を見ることができるのか?」という疑問だった。目の前で対象をグルグルといろいろな方向に回転させる。わたしの位置をもし点として考えてよいのならば、この回転によって見えている対象の表面は内部/外部を反転させて、わたしを中心点とする球体を作っているのではないか。一体、その反転した空間とはどこにあるのか——。今考えればほんとうに拙い疑問だが、この素朴な疑問がヌース理論の出発点でもあった。
今はおかげさまでこの疑問にはっきりと答えられる。無限遠点とは対象の背景空間そのものである。そして、それは別名、視野空間と呼ばれるものである。そして、それを中心とした回転とは他者が見ている回転である——と。主体は他者の視座に身を明け渡し、この視野空間に不在の斜線を引く。鏡像交換という人間には避けて通ることのできない掟によって、人間は誰もが目を潰されるのである。ラカンのいう空虚な穴。それは僕の目、そして君の目のことだ。
対象を「図」とすれば無限遠点は「地」だ。だが、この「地」は、なぜか今まで誰にも省みられずにいた。表象を追いかけることに精一杯で、その表象を浮かび上がらせている背後の空としての「脱-表象」を表象として見る者は誰もいなかったのだ。存在者から存在への飛躍。そこにも間をつなぐこの女の場は省みられることはなかった。見捨てられた女、もしくは、現れることのない花嫁。
奥行きを持って彼の女を見れば、それははるか宇宙の彼方に想像されようが、あるがままにそれを見れば、それは今、此処そのものにある薄膜である。無限遠とは、表裏が一体となった、あのデュシャンが語ったアンフラマンスとして、今ここにある。
脱-表象の思考——それは視野空間の中に映る諸々の「もの」たちではなく、視野空間そのものを対象とすることによって生まれてくる天使的思考だ。そう、それは無限遠点を対象として見ることによって初めて可能となる。「わたし=人間」にまつわるすべてのドラマはこの神秘のヴェール上で起こってきたわけだが、そろそろこの悲喜こもごもに賑わう仮面舞踏会も幕引きの時間とあいなるだろう。まずは、僕が後ろへ一歩後退すること。そして、次に君が一歩退くこと。そして、今度は二人一緒に二歩目の撤退を。それだけで世界はてんやわんやの大騒ぎになるはずだ。そう、だからステップを踏もう。ワルツのように軽い足取りで。そう、あのダンカンの踊りのように。。
やがて君と僕はこの撤退の身振りによって、君と僕が一体誰であったのかということを知ることになる。視野空間の中の世界は相も変わらず口パクの喧噪で溢れているが、何も心配することはない。まもなく襞のカーテンは開かれ、とびっきりの演目が始まることになるのだから。
selention〜,selention〜. 皆さん、ご静粛に。当劇場ではもう口パクは必要ありません。場内では目で話し、目で聴くこと。それが慣例です。さぁ、この類い稀なる新しい舞踏をご覧あれ。selention〜,selention〜.
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ラカン, 無限遠