3月 24 2006
鏡を開くということ
ヌース会議室の宇宙卵の卵割を受けて——。
ヌース理論が展開する宇宙構造の概念は、まずは自他のパースペクティブ関係の幾何学化からスタートする。その意味では現象学的である。自他は決して同一のパースペクティブを持つことはできない。もちろん、これは現象学がいうように自他の身体が同一の位置を同時に占めることはできないという意味を含むが、より重要なことは、自他の知覚において、実際には対象の内部性と外部性が反転しているということにある。こうした視点は現象学にはない。この幾何学的関係を持ち込む事によって、意識を構造的に見る視座が生まれてくる。その意味でヌース理論の導入部はフッサールと晩年のラカンをミックスさせたような手法にあるとも言える。
自他における内部認識と外部認識の相互反転性——このことを示唆する哲学、思想は少ない。極端な言い方をすれば、わたしが見ている地球外部の宇宙空間は、他者にとっては地球の内部空間の意味を持つ。伝説として言い伝えられて来た地球内部に存在するというアガルタ、シャンバラは、実は他者世界であるというのがヌースの天上観なのである。同様にその入口は北の極地、すなわち、北極にある。なぜならば、地球磁場とは顕在化の入口の力=ψ7の力でもあるからだ。ヌース理論が説くアセンションとは銀河中心に地球をテレポーテーションさせることでもなく、フォトンベルトが地球を通過するといった物質的なイメージでもない(これらはある種の比喩である.即物的にイメージしないこと)。
僕ら「自我」を中心として生きる人間が「+1」の存在として生きているのであれば、まずは「−1」の存在を見つけ出さなくてはならない。それによって、+と−を相殺させ、プラスマイナス0を作り出すこと。ズバリ一言で言って、これが変換人の役割だ。そして、一度、その存在の中点へと達したならば、今度はそこから「-1」側へと歩みを進めていくこと。これによって僕ら「自我」は真の他者世界へと入って行くことができる。人間を経験し、ヒトを経験すること。そうやって今度は真実の人間の経験地帯へと進むということだ。こうして、新たな「−」が生じれば、宇宙はごく自然に次なる「+」を返してくる。こうして一度目の交替化が完了する。
こうした一連の進化の作業における第一歩が光の分割作業である。世界を二つに分割すること。自他が見ているモノは互いに内と外が逆になっている。このことをしかと認知すること。。おそらくこう聞いても、君たちの認識はすぐには反応してくれないだろうと思う。どう見たって、わたしにとっての外は他者にとっても外になっているとして思えないはずだ。半田は何を血迷ったことを言ってるんだ。そう罵声を浴びせかけられるかもしれない。しかし、それは君たちが鏡の魔法のもとに深く眠り込んでいるからだ。試しに洗面所の鏡をちょっくら覗いて見るといい。そこには君の背後の世界が見えているはずだ。背後の世界を地として君の身体像が図として浮かび上がっている。背後の世界を見ることにおいて、君は初めて、そこに己の肉体性を自分として確認することが出来る。つまり、世界内存在としてこの宇宙に投げ込まれた人間は、この背後の空間の存在を通して3次元世界の中に居住させられているわけだ。しかし、だ。ここが大事なところ。この「背後」の空間は君が実際に見ている世界ではない。君がどうあがこうが君の眼で直に背後を見ることなんて不可能だ。要は、背後とは現実的なものではないということである。では現実はどこにあるのか——。
簡単なことだ。現実は「前」にある。在とは前にあるもののことだ。しかし、困ったことに、君はこの「前」を他者の背後に置き換える。こうして人間は自身の背後と他者の背後をくっつけ合わせて、それを世界と思い込むのだ。お〜い、前はどこに行ってしまったんだよぉ〜。しかし、君はおそらくそこのことに気づいていない。だから、人間なのである。
えっ?何を言ってるのか分からないって?。。う〜む、だから、首を切れと言っているのだ。首を切れば背後は自然消滅する。首を切って大地の死者となるのだ。死の世界は大地の光に満ちている。大地の死者となってその眼前に見える光の世界に己を溶かし込め。こうした実存としての「前」が、それこそ多くの人々の「前」に姿を表したとき、鏡は開かれ、封印として機能してきた鏡の魔法はその効力を失効する。
鏡開き完了の象徴数は「11」である(ヌース理論ではψ11とψ*11として表される)。二枚の鏡がともに開かれれば、それは「22」ということになろう。キャッチ22。漢字で書けば+−+−である。ここに本当の主体の姿が双子として出現してくる。それはヒトの世界では5と5(同じくΩ5とΩ*5として表される)が向かい合う世界となる。5とは生命を司る無限力の象徴だ。二つの無限力が二つの太陽(吾)の名のもとに向かい合い、古い宇宙の清算を行うべく厳粛なる儀式を行う。これが真の位置の変換と呼ばれるものである。2013年から開始されることになるこの宇宙的儀式は、2039年までにその行程をほぼ完了させることだろう。これからの変化は激烈だ。心に深く留めるべし。まもなく、死が生として訪れる。。
4月 2 2006
人間の内面と外面
さて、わたしから言わせてもらえば、一般的に使用されている人間の内面と外面という言葉は、きわめて気分的なもので、曖昧な言葉づかいのように思える。容貌や服装の趣味が人間の外面であるというのはまあ良しとしても、どうして性格や心理的な側面が内面なのだろう?内蔵や骨格が内面であるというなら分からないでもないが、一体ここで使用されている内/外という概念は何を境界にしてそのように呼ばれているのだろうか。「内面」という言葉を使うからには、人間の性格や心理が肉体の「内」にあるからとでも言いたいのだろうか。性格や心理は心の産物だが、心は身体の中にあると思われているから「内面」なのだろうか?
で、君に聞きたい。心ってほんとうに体の中にあるのか?
こうした通常の内面・外面の使用に比べて、ヌースのそれは極めて明瞭だ。人間の外面とは見えている世界のことをいう。つまり、一つのモノであれば、その見えているモノの表面の部分だ。だから、人間の外面とはモノの外面と同じと言っていい。これがψ1で示される。あと、モノの背後に存在している「地」となる∞の空間が作っている面(視野面)も、とりあえずは見えている世界なのだから人間の外面の範疇である。これがψ3。視野上の空間が「外面」かどうかを確かめたい場合は、目の前のモノをどんどん縮めていくイメージを作るといい。縮めて縮めて点になっても尚縮めるのだ。そうすると、今度は表裏が裏返ってモノが膨張していくイメージが生まれてくる。そこで反転が起きているわけだ。そして、そのとき、モノの外面だった凸の部分は、今度は凹になってモノの背後に感覚化される球面として現れるのが分かる。物体の背景として見えている空間とモノの表面として見えている空間は同じ面が反転して見えているだけなのだ。だから、ともに外面である。
一方、人間の内面とはどういう場所かと言えば、見えない部分と考えていい。たとえば、モノの表面の裏面を考えてみよう。僕らこの場所を見ることができない。スイカの皮の裏側を見ようと思って、スイカを割って、その皮の裏側を指して、「ほら、これが裏面だ。」と言ったところで、その時点で、それはもうモノの外面になってしまっている。見える側を外面として定義してしまった時点で、内面は永久に見ることは不可能なのだ。外面のウラである内面は原理的に見ることができないのである。そして、これは文字通り人間の内面と呼ぶ。
世界には他にも見えないところはある。例えば、モノの背後側はどうだ?そこもヌース理論においては人間の内面領域の範疇である。裏を見ようと思って、モノを回転させたとしても、見えるのは常にモノの正面であって、その背面側は決して見ることができない。さっきと同じ要領でモノを縮めていってみるといい。反転してきたときは、モノ表面の裏面だったところは、モノの背後側にある面と同じ面であるということが分かる。よってそこは人間の内面だ。これがヌース独自の4次元知覚のモノの見方である。あと、自分自身の背後の風景はどうだ?この場所も自分の肉眼では絶対に見ることはできない場所である。だから人間の内面と言っていい。さきほど視野空間上の無限遠平面を人間の外面としたのだから、この背面側は(知覚背面と呼ぼう)は、当然、視野面の裏面となっている。
ここまで言えば、ヌースにおける人間の内面と外面という概念が何を言い表さんとしているかおおよその見当はついてくるだろう。簡単である。つまり、ヌースにおける「人間の外面」と「人間の内面」とは、「前」と「後」という概念の本質について言っているのである。前は見えるが、後は見えない、ただそれだけのことだ。そして、人間の意識には「前の意識」と「後の意識」というものがある。それが人間の外面の意識、内面の意識というもののことである。
見えない「後」を「前」として見るために、人は「鏡」というものを用意する。例えば、モノの後を見たいならば、モノの後側に鏡を立てればよい。すると後があたかも前であるかのように見える。自分の後を見たい場合は、自分の前に鏡を立てればよい。すると同じく後が前であるかのように見える。。そして、このような前と後の関係は自他の間では互いに逆になっている。互いに反転しているわけだ。こんな簡単な話はない。自他の認識している空間は4次元的に相互に反転しているのである。
にもかかわらず、通常の意識は世界をそのようには見ていない。あろうことか自他両者ともが、見えない内面側を共有し合って世界認識を作っているのだ。つまり、人間の世界認識からは外面が完全に欠落しているのである。そして、見えない世界を見える世界と呼び、見える世界を見えない世界と呼んでいる。。。こんなペテンが堂々とまかり通っていいのだろうか?僕ら人間は心底狂ってる。早く内面から出ようぜ、Baby。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 10 • Tags: 内面と外面, 無限遠