3月 28 2005
贈ること、と受け取ること
一人デュオニソスの祝祭日も終わり、平穏な日々が戻ってきた。いつもの通り、会社に出社。売り上げ状況を確認したあと、たまっていたメールと手紙の返事を書く。わたしは手紙の返事が苦手だ。特に知らない人から来た手紙には何をどう書いてよいやら分からない。生来の性格が無精なせいもあるが、基本的に面識がない人にはここ数年はほとんど返事を書かなくなった。しかし、とはいいながらも、この人には返事を出さなくては悪いのでは?と思われる人には、仕方なくペンを執る。今日は、先日、本の原稿をいただいたS氏がその宛先である。
処女作の「人神」を出版した当時は、読者から毎日のようにFAXやら手紙が来ていた。本の内容が内容なだけに、中にはイカれているのもある。丁寧かつ、真摯な内容のものだけ選んで返事を書くようにした。しかし、返事を書くと、また、返事が返ってくる。苦しい。。別にわたしはあなたと文通がしたいわけではない。。。。時間がたっぷりとあるならば、一通一通、丁寧な返事を書き綴りたいところだが、手紙をしたためるというのは、思いのほか時間がかかるのだ。残念ながら、わたしの度量ではそこまで時間を割くことはできない。
手紙はまだいい。問題は贈り物、プレゼントの類いだ。
「先月、セドナに行ってきました。そこの石です。」
「中国で竜が宿ると言われた洞窟から採れた水晶です。」
「○×神社の御神石です。そばに破片があったので、だまって持って帰って来ちゃいました。」
職業柄、わたしのもとには、こういった類いのプレゼントがよく届く。一度、直径が20cm以上もある紫水晶の原石か何かを読者からいただいたことがあった。重さにして10kgぐらいはゆうにある。気持ちは本当に有り難いのだが、「オレは石屋じゃねぇー」。
見知らぬ人からの贈与は、それが高価なものであればあるほど一種の暴力と化す。プレゼンターは何か見返りを期待しているわけでもないだろうが、受け取った方に取っては、それは一種の負債のように感じさせられてしまうのだ。何かお礼をしなければならないのではないか。もっと感謝しなければならないのではないか。こんなところに放って置いてよいものだろうか。そうやって、わたしの中に絶えず強迫観念が襲ってくる。
世界とて同じだ。
神という見知らぬ者から、わたしへの、世界という多大なる贈与。
これだけの世界をおまえに与えてやったのだから、おまえはわたしに感謝すべきではないか?
おまえが生きていられるのは、わたしがいるからだろ。だから、わたしの名を呼べ。
おまえに感謝がないから、こんな罰が下ったのだぞ。
——神の奴隷的精神。ユダヤ的一神教の精神の誕生である。
わたしは自然や、わたしの生を支えてくれる周囲の良識ある人々には心から感謝しているし、彼らのためであれば、いかなる労苦も厭わない。しかし、人を脅すような神には絶対に仕えない。人に命令を下すような神は絶対に信じない。古き父にこの世界からいなくなってもらうこと。それがヌースの見果てぬ夢である。
3月 30 2005
他者の顔
昨日はトーラス氏とチョコボ氏に続き、夜中、東京ヌースレクチャーのメンバーでもあるS氏とG氏が連れ立って来襲。閑静な住宅街の片隅にあるアカデメイア事務所は、一瞬にしてむさくるしい男どもの寄宿舎と化した。
トーラス氏とチョコボ氏の来福は前もって連絡を受けてはいたが、S&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)まで来るなんて寝耳に水。おまえら社会人なんだから、人の所に泊まりにくるときはちゃんと前もって電話の1本でも入れんかい。最高のホスピタリティーで迎えてやりたくても、これじゃ寝床の用意もできんやないかー。ということで、昨夜は二つの布団を中年男4人でシェア。トーラス氏とチョコボ氏には気の毒な一夜だった。この四名様ご一行、今晩もここアカデメイア事務所に宿泊の予定。今(午後6時現在)は、近くの二日市温泉というところに行って留守だが、おそらく、そろそろここが我が家であるかのような顔をしてワイワイガヤガヤと戻ってくることだろう。すでに今夜のスケジュールも整っている。夜は全員でワールドカップ「日本VSイラン戦」を見ながら騒ぎまくり、そのあとは、すき焼きパーティー。その後、ヌース談義。たぶんS&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)の二人は「激論!朝まで生ヌース」に突入するはずだ。
ヌースのレクチャーを長年やってきたことによる財産。それは人である。ヌースのレクチャーには老若男女を問わずいろいろな人がやって来る。経営者、大学の先生、学生、霊界おばちゃん、主婦、プータロー、アーティスト、お坊さん、OL………本来なら、絶対に交差しないような人種同士が、ここでは交差し合い、特に2次会では、互いの人生観などを夜遅くまで語り合う。某放送局でやっている「しゃべり場」のもっと濃いやつと思っていただければよい。
考えてみると、日本では、宗教団体の会合以外にこういった場所がない。年齢も、職業も、趣味も、それぞれが抱えている日常的な問題意識も全く違った人々が、一同に集まり、宇宙のこと、人間のこと、未来のこと、その他もろもろの等身大の形而上学について、忌憚なく語り合う。みんな主張はバラバラだ。しかし、誰一人、我を通そうとする者もなく、ときに口角泡を飛ばしてやり合うこともあるが、和やかで楽しい時がすぎていく。こうした調和は実に心地がよい。そこには無数の生きている無名性の顔がある。笑う顔、物憂げな顔、眠そうな顔、おどけた顔、不機嫌な顔、怪訝な顔……これらの顔はどこからやってきたのか。そして、これらの顔はどこへ行ってしまうのか。そんなことを考えていると、ベンヤミンではないが、やっぱり、みんなの顔が無数の星座に見えてくるのだ。語らうことなくして生はあらず。語らうことなくして宇宙はあらず。語らいは星と星の間に引かれた線だ。
ちなみに、古代エジプトの神オシリス(Osiris)とは、os-irisたくさんの目という意味でもある。。他者の顔貌とはヌース理論においては神々に等しい。……… しゃーないなぁ。S氏とG氏もせっかくはるばる遠いところから訪ねて来てくれたんだから、優しくもてなしてあげんとね。朝までヌース………、わたしも付き合うとするか。。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4