5月 5 2005
骨が折れる4次元の解説
ヌース理論はわたし自身の中では日々パワーアップしていってる。だけど、他者に伝えられなくては単なる自己満足の域を出ない。現在、テキスト用に整理していってるのはNC assemble line(エヌシー・アセンブル・ライン)というやつで、これは四次元空間を具体的に理解していくための手順プロセスのようなものである。NCというのは全体が完成すると4次元球面というカタチになるのだが、4次元球面のカタチをイメージできるようにするためにはどのような思考方法を用いればよいのか、それらをいろいろと試行錯誤しながら現在まとめているところだ。
4次元空間さえおぼつかないのに、4次元球面なんてどうやってイメージするのか、と思っている人がほとんどだと思う。しかし、4次元空間を描像することは難しいことではない。みんな4次元を難しく考えすぎているだけなのだ。4次元を理解するためには観察という要素を加味すればいい。ヌース理論では「次元が上がる」というのは「観察する」とほぼ同じ意味なのだ。
「光の箱船」にも書いたように、たとえば、1次元は2次元方向から観察される。続いて、2次元は3次元方向から観察される。ならば、それと同じように、3次元は4次元方向から観察されているのではないか。。。ただ、それだけのこと。だから、対象の位置の概念が形作られる空間が三次元空間だとするならば、それを観測している者がいる場所は3次元ではなく4次元だということになる。わたしは今、博多にいるけれど、この博多にいるということを知っている私自身は四次元にいる、単にそういうことだ。じゃぁ、この四次元ってもっと具体的に言うとどういう世界なのか——ここでふくよかなイメージを無数に提出すればするほど、四次元知覚の機能はアップしてくる。このイメージを送り出すのがヌースの言い出しっぺであるわたしの仕事だ。
たとえば、あらゆる位置から一つのリンゴを見てる意識があると仮定してみよう。そのような意識で見られているリンゴは普通、客観的なもの、と呼ばれる。じゃあその客観は三次元世界の産物かというと、そうではない。主観の観察でさえ4次元にあるわけだから、客観がもっと上の次元だというのは当然、予想がつく。客観というのは三次元立体としての一つのリンゴを同時に様々な方向(他者)から見れるものなのだ。そうした客観化を作り出す意識を客観意識と呼んでもいいし集合意識と呼んでもいい。とにかく、そういった意識の存在を想像してみよう。そうすると、すぐに分かるのは、こうした意識が時間を超えているということだ。時間を超えるということを空間的に表現すると、瞬間的に別の場所に移動ができる、ということでもある。つまり、「時間よ止まれ」と言って、世界の時計をいったん止めて、その止まった時間の中で動く事ができて初めて他者の立場に立ってリンゴを見ることができる。
しかし、4次元連続体としての時空は、時空一体であるので時間が止まれば空間も凍りつく。だから、ここで動ける空間というのは四次元時空に含まれる三次元成分としての空間領域ではない。それは三次元には含まれない空間だから、ここに四次元空間が初めて顔を出すという筋書きになる。この第4の空間次元の描像を初めて明快な映像で示してくれたのが映画「マトリックス」だった。バレットタイムの中で時間は止まるが撮影しているカメラは動いている(ウォシャウスキー兄弟が実際には無数のカメラを並べて撮影していたことを思い出そう)。このカメラの動きが展開している空間とは現実的には何の空間だったのか——それが空間内に配位された他者の視点だということだ。他者の視点を全部共有するというところに、客観意識、または集合意識の最も分かりやすい表現がある。こうした意識から見た風景はあらゆる視点を持っているので当然、不変だ。それこそ、その不変性が数学的に四次元対称性と呼ばれている概念に対応する。つまり、生きている人間のいる位置は想起、持続、記憶を含んでいるという意味で三次元空間上の位置ではなく、四次元空間上に組み込まれた位置なわけである。世界を見る視点をいろいろと変えるというのは、その意味で四次元空間上の回転になる。それが時間に現れればSO(1.3)で、空間に現れればSO(4)である——。物理学も、そろそろ観察や他者の視点といった概念をより積極的に考慮してはどうか。そうすれば物質と意識を結びつける理論へと駒を進めることができるはずだ。
5月 9 2005
60億総Poserの時代
一昨日あたりから、この間購入したPoser6(ポーザー・シックス)を本格的に使い始めた。もちろん、テキストに導入するイラストや、ネット上でのアニメーションコンテンツの作成のためである。ソフトに詳しくない人たちのために言っておくと、Poser 6とは人体3D作図専用の最新版ソフトのようなものだ。おそらく、3Dアニメーションで人体が登場する部分はほとんどこのPoserシリーズで作られているのではなかろうか。それくらい人気の高い代表的なソフトと言っていい。
まだ、触り始めたばかりなので何とも言えないが、最近のPoserは各関節部の動きが連動するように作られているようだ。かなり昔にPoserの古いバージョンを触ったことがあったのだが、そのときはまだ諸関節の動きの連携はこれほど巧みにプログラムに組み込まれていなかった。そのため、例えば、足首や膝、股関節といった三カ所のジョイントはそれぞれ独立して自由に動かすことができ、初心者がいじくっていると、複雑骨折したかのような不自然なポーズがすぐにできてしまう。一度、関節がグニャグニャになってしまうと元に戻すのがもう大変。そのために即ギブアップした記憶がある。しかし、現在のバージョンは、親切にもそうした不自然な関節の動きの連携を許さないように初期設定されているようだ。例えば、歩行のポーズを作るときに右足を出せば自然に左手が前に出てくる。けんけんのポーズを作るときに右膝を軽く曲げ左足を上げれば、右肩が落ち体全体は若干右に傾く。そういう姿勢に自然になってくれる。その意味では大変、使い勝手がいい。しかし、このプログラミングは、裏を返せば、不自然な関節の連携は禁止する、というおふれ書きに取れないこともない。このソフトではUSAの陸上選手のような走りのポーズはすぐに作れるだろうが、ナンバ走りをする江戸時代の飛脚を表現するにはかなり面倒な操作が必要となるだろう。
世界観と身体観は同期して変遷する——。近代的な物質的世界観の中では身体観もまた物質的な枠に閉じこもってしまった。いわゆる3次元認識のクセに沿って、三次元の物質的身体感覚が養成され続けているのだ。このPoserはまさに、そうした身体イメージの総仕上げのように感じる。実際にPoserを触っていて感じるのは、身体にこういった動き以外はあり得ない、否、あってはいけない、という統制である。実際に使っていて言うのも何だが、フーコー風に言えば、身体を機械として管理する眼差しをより一層強化させるツールであることに間違いない。
そろそろ身体を物質概念から解放してやってはどうか。ヌース理論の考え方では、(人間の外面という意味で)身体と身体の周りの空間は区別することができない。見えている風景そのものが皮膚なのだ、という言い方をするのもそのためだ。とすれば、毎日のように繰り返される他者との情念の交流は身体の生理作用と直結していると言えるし、モノを見て何を感じそこから何を表象しているか、といった思考作用でさえも、身体の代謝機能と別物ではない。いうなれば、わたしは、常に、身体とともに、身体の内部で生きているのである。自身の身体を物質のように見る眼差しは真のリアルから逸脱したナルシス的自我=水子の目によるもの以外の何ものでもない。自分を外部から見るのではなく、内部から見ること——内側から見た身体とは世界そのものなのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フーコー, 内面と外面