6月 13 2005
月の光の幻想 その2
さて、ドビュッシーの「月の光」の中に秘められた神秘主義的観想はさておいて、一昨日の「光の形而上学」に関してちょいとばかり追記しておこう。
闇の中の光と光の中の闇における、最初の対立は見ることそのもの中において起こっている。その事件をあえて図式化すると左のようになる。この図は一つのモノを挟んでの自己側の光と他者側の光の在り方を単純な幾何学として示したものだ。見て頂いている通り、左右の円板A、A*は自・他の視野空間を表し、その中心点B、B*は同じく他・自の瞳孔を表す。わたしの視野空間A上に映し出されるあなたの瞳孔Bと、あなたの視野空間A* に映し出されるわたしの瞳孔B*の関係が交合円錐として表されているものと考えてくれればよい。
この図を見てすぐに分かることは、一般に僕らが「三次元」と呼ぶ空間描像の在り方には二つの種類があるということだ。一つは自他互いの瞳孔の認識の交換(B⇄B*)によるもの。もう一つは視野空間に見えている世界そのものの交換(A⇄A*)によるもの。つまり、この図に即して言えば、三次元には点の交換と面の交換による二つの類型があるということになる。当然、点の交換によって想像されている三次元は、見られているもの同士の交換であるから、そこには光は差すことはない。それらはいわば二組の閉じた目だ。一方、面の交換によって想像されている三次元は、見ることそのものとしての光に満たされた二組の見開かれた目の共同作業によるものである。ヌースでは閉じた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ4(ψ*4)と呼び(ψ*はプサイスターと読みます)、一方の見開かれた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ3(ψ*3)と呼んでいる。
わたしたちが通常3次元と呼んでいる空間は閉じた目の領域、すなわち、次元観察子のψ4(ψ*4)に当たる。これは、普通、人間の観察位置が「視点」と呼ばれていることからもすぐに察しがつくだろう。あなたの目も、わたしの目も、三次元世界に点状のものとして存在している、そういう見方の認識である。この視点の発生に自我性が覆いかぶさるってくる、というのが20世紀になって出てきた精神分析の知見だ。ラカンのテーゼ「わたしは見られている。わたしこそがタブローである」を思い出してみるといい。「わたし=主体」とは、本来、視野空間そのものであったはずなのだが、いつのまにか他者の眼差しに映る瞳孔へと姿を変え、三次元空間上に点状の存在としてピン止めにされてしまっている。つまり、「わたし」は「見るが故に在る」というよりも「見られるがゆえに在る」存在へと移行させられてしまっているのだ。この移行した質点をラカンは想像的自我の胚芽と見なした。これはフロイト流に言えばナルシス的自我の温床となっているものだ。三次元という水の中に溺れてしまった魚眼たち。闇の中の光、すなわち、シリウスファイルでいうところの「原初精神」の営みがここで行われている。
さて、こうした光の屈折の事件のあらましが見えてくれば、両生類的なものへと自らの眼をサルベージするのもさほど難しいことではなくなるのかもしれない。一つ考えられる方法は、見るが故に在るもの、つまり、視野空間そのものに真の主体の座をまずは明け渡してみてはどうかということ。そして、今度はその視野空間自体を対象として見ているような意識の場所をサーチしてみること。そこに本当の君が隠れているのではないか?………僕はそう感じている。あっ、それともう一つ大事なことを言っておかなくちゃいけない。
今まで、僕らは、物質の世界を見える世界、精神の世界を見えない世界と思って生きてきた。しかし、ここから類推される事実は逆だ。物質はそれが三次元的なものである限り、見えない世界に存在している想像的なものであり、そして、一方の精神の方は見える世界に存在する現実的なものである。ヌースの空間に入るためには、この”あり得ない反転”に関する視力を高めることが必要だ。
6月 30 2005
物質と文字
かねてより製作中であった「7の機械」の最終調整も終わって、最終工程として予定していた機械名の刻印作業を行った。直径80cm、厚さ8mmのステンレス板の表面をヘアライン加工し、そこに深さ0.5mmほどの文字彫刻をレーザーで入れたのだ。加工業者にはかなりの金額を取られたが、名付けの刻印は製作物においては、その製作物が持つ機能と同等、いや、それ以上に重要なものではないかとわたしは思っている。こうしたところに金をケチるやつはモノを奴隷としてしか見ていない人種である。
“文字(言語)の理念性は文字(言語)の物質性と切り離すことができない” これは、かのデリダが語ったことだ。その意味では、現代では文字の理念性はすこぶる弱まっていると言える。実際、象徴界の勢力がヘタってきてることは、昨今の「活字離れ」を見ても明らかだが、テキストがPCや携帯端末などのモニター上で表示されればされるほど、書かれたものとしての「エクリチュール」の力は人間の意識活動から姿を消して行っている。デジタルカルチャーの中では、”刻み込み”がないがゆえに、文字と物質性との関係は極めて希薄で、かき消し、書き直しなどの改竄は極めて容易となる。歴史の歪曲でさえデータの置き換え操作一つで済んでしまうのだ。これは権力機構にとっては格好のシステムである。
ピラミッドテキストに代表されるように、古代のエクリチュールはそのほとんどが石に刻み込まれた。存続性の高い固い物質性抜きに文字は存在し得なかったのだ。グーテンベルグが発明した活版印刷でさえ、それは刻印の一種と言っていい。その命脈は現在の「本」にも流れている。印刷された活字とは文字通り活動する文字のことなのだ。しかし、ここ20年で状況は一変した。活字の死が至るところで見られる。手紙がFAXに変わり、FAXが電子メールへと姿を変えることによって、活字が持つクオリアはその物質性の減衰とともに完全に消失していっているような気がする。情報(inform)のみに価値を置く肥大化した関数脳が、リアルな物質(outform)を享受する感覚脳を駆逐し始めているのだ。そこに展開される文字の情景は救いがたいほど荒涼としたものだ。
墓石や記念碑が、JRの山手線の電車内広告のように、TFTパネルで表示されたとしたらどうだろう。そこには綿々と流れる物質的時間の歴史の芳香は掻き消え、正体不明ののっぺらぼうな無時間性が姿を表すことだろう。こうしたのっぺらぼうな無時間性は”存在の死”の名に値するようにも思える。この領域に少なくとも、わたしの生きたこころにはタッチできない。裏を返せば、こうした風景は物質が魂に働きかけを失ってしまった場所でもあるのだ。その意味で、物質にダイレクトに刻まれた文字は、こころに刻み込まれる言葉と深い関係にある。こころに刻み込まれる言葉とは、わたしの情動を深く突き動かす力でもあるだろう。深い情動は、わたしの創造力と意思にダイレクトに働きかける。文字は再び、心への刻印として浮かび上がるべきである。
デリダは、イメージ(図像・形態表象)とシンボル(記号・文字・象徴)は全く別なものであると語っていたような気がするが、これからの新しい時代に立ち上がる文字は、これら両者の差異を埋めることの出来る文字であるべきだ。それは必然的に従来の文字の起源となった図像、形象にわたしたちを導くことになるだろう。「あ」はなにゆえに「あ」と書くのか。「Ω」はなにゆえに「Ω」と書くのか——そして、また、そこに託された意味は——。そのときわたしたちは名の「刻印」から解放され、今度は名付ける者となるべく、その準備に入るのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3