8月 25 2005
3次元球面と地球表面
昨日は、浜松で、久々に砂子氏と会った。現在、作成中のテキストの数学的な記述部分の監修をお願いするためだ。新しいヌーステキストに数式を多用する気はさらさらないが、ポイントポイントには、やはり、数学的な定格化は必要となる。必要以上に難しくはしたくないので、数式を登場させるときには必ず別枠で、例えば、「ψ5の数学的表現」といったような形を取って、登場させようかなと思っている。
まぁ、昨日はそういった流れから、ヌース理論に登場する諸概念の数学的な表現の再確認のために砂子氏のもとを訪れたのだ。対話はやはりとてもエキサイティングなものとなった。そこでは、ψ1→ψ3→ψ5→ψ7といったヌースの次元観察子という概念が、スカラー、ベクトル、スピノール、スカラーという関係に当たるのではないかとか、物理学がいう「力」の本質とは実は観察主体側の位置における認識の強度のことではないかとか、p→-ih(-)∂/∂xなどといった量子化の手順とはヌースでいう外面化の記述にすぎないのではないか、などといった様々な物理解釈で盛り上がった。中でも一番、エキサイティングだったのは、砂子氏が対話の最中にこぼした一言だった。
「半田さん、もし、半田さんの言うように、地球表面がSU(2)が形作る球面だとしたら、その内面化は三次元双曲面として宇宙空間に射影されますね。」
「それって、砂子さん、恒星のことじゃないの?」
SU(2)球面と三次元双曲面の関係は、ヌース的にいうとψ7とψ8の関係に当たる。単純にいうと人類全体が意識する「前」が集まった空間か、「後」が集まった空間かの違いである。地球は普通に考えれば、もちろん2次元の球面だが、その表面上には世界の観察を行っている人間の個体が無数に貼付けられている。この観察次元を考慮すれば、もちろん、単なる2次元球面とは呼べなくなる。個体の知覚正面(前)の全体は、今のところ数学的にはU(1)と見なしているが(この部分は砂子氏とのコンセンサスは取れている)、もしそうならば、この知覚空間を地球上の一点、一点に貼付ければ、
U(1)×S^2=S^3
となる。S^3とは3次元球面のことだ。このS^3はSU(2)と同相である。
つまり、何が言いたいのかというと、ひょっとすると地球表面と宇宙空間の間には認識の次元を媒介とする高次元のトポロジーで象られた反転関係があって、地球表面上のSU(2)の元の一つ一つが、宇宙空間上の一点一点に射影されるような仕組みがあるのではないかということだ。もちろん、ここで言っているSU(2)の一つ一つの元とは人間の個体の魂のことで、射影される一点一点とは恒星のことである。まだ、具体的なロジックやイメージは浮かんではいないが、おそらくそういった方向で、「人間とは星である」というヌース理論の確信的主張が科学的様相を持って展開されていくことになるだろう。いずれにせよ、地球表面を単なる2次元球面ではなく、3次元球面と見なせるような思考形態が必要である。そのイメージが出てくるまでそう長い時間は要しないだろう。
9月 15 2005
眼から芽へ
現在、ヌース理論のテキストブックの下案作りをヌース会議室の方で進めているが、今日は、1日仕事の手が空いたので、そちらの作業にだいぶ時間を割くことが出来た。
今日考えていたのは「表相」というヌース独自の概念についてだ。独自でもないか。。。フッサールの現象学なんかでは「射映」と呼ばれているが、要は、視野上に顕われているモノの見え姿のことである。ヌース理論では、この「表相」を精神構造における最もミクロな部品と考える。僕らの周囲を見渡してみると、それこそ、多種多様な表相で覆われているのが分かる。様々な形と色とデザインでかたどられた対象の数々。鉱物、植物、動物、人工物、星空、そして、君の顔。僕らの肉眼に写し出されている表相の世界は実に多彩だ。
表相とは別名、見ること、に他ならない。見ること——精神はこの行為によってその活動のスイッチを入れる。当然、見ることのさらなる奥には、触ることや嗅ぐこと、味わうことや聞き入ることなどの諸感覚の働きがあるだろう。しかし、ヌース理論は敢えて、見ることにこだわりたい。なぜなら、見ることは知性的なものの象徴だからだ。ヌースが旋回的知性という名の通り、知性の範疇であるならば、見ることはこの旋回性に無関係のはずがない。人によっては、ヌースがあまりに視覚にこだわるので、おもむろに嫌悪感を示す人々がいる。
「眼は理性の象徴である。それはアポロン的な知性しか呼び起こさない。どうして、眼にデュオニソスの力を再現する力があるというのか。眼によって世界の裏を見透かすことはできない。」
果たして、そうだろうか。僕は、人間はまだ眼の潜在的な力を開拓しきれていないのではないかと感じている。もちろん、嗅ぐことや聴くこと、触ることや味わうことなどによって呼び起こされる共感覚が、無意識を呼び起こす上でとても重要なことぐらい百も承知している。しかし、神の性器は間違いなく眼だ。そういう確信がある。だから、神の生殖に関して思考を巡らすためには、いや、神の生殖をこの世界にもたらすためには、この「眼」についてもっと深く思考する必要があるのだ。
現在、眼は極めて男性っぽい響きを持っている。視姦。覗き見。監視。etc。それは、人間があまりに見ることにおいて、見るものを意識しすぎているからだろう。しかし、それも無理はない。見るものがどこからやって来たか知らないのだから。受け手はただ、与えられたものの美しさや不思議さに魅せられるしかない。しかし、そろそろ、受け手自身である自分に眼差しを向けてはどうだ。見ることにおいて、見られることの方に意識を向ければ、眼はそれこそ、女(め)となり、また、芽(め)となることができはしないだろうか。
眼がモノを見ているとき、モノもまた眼を見ている。眼がモノから放たれる光を見ているとき、モノもまた眼から放たれる光を見ている。僕らの眼はまだ十分に開いてはいない。眼が完全に開いたときには、もはや、モノを見る必要はなくなるだろう。僕らの眼とモノの眼が出会うとき、二つの眼は光そのものになる。光になれば、世界から見る主体も見られる表象も消え去る。そこに出現するのはタブラ・ラサとしての世界だ。
さて、何を描こう。。。
ヌースの芸術がここから始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: 表相