7月 21 2006
ヌースとオカルト
ヌース理論はOCOT情報にそのルーツがあるが、理論構造の全体性はカバラとほぼ同型対応している。言ってみれば、カバラ用語を一切使わないカバラ、である。であるからして、よく、ヌースはオカルトだ!!という批判を耳にするが、全くその通り、正真正銘、これ以上ないくらいの生粋のオカルトと言っていい。ただし、ただのオカルトではない。オカルティストたちにはお叱りを受けるかもしれないが、古代カバラ、近代カバラに続く、「近未来カバラ=第三のセフィロト」の設営を企んでいる。今の旧態依然としたオカルティズムには抹香臭さと物足りなさを感じてしまうのだ。その意味では、根底にオカルト批判のスタンスも持っている。
さて、オカルト批判と言えば、オカルト誹謗者たちはオカルトの意味もよく知らずに、あれはオカルトだぁ〜、洗脳だぁ〜、と言って、オカルトを前時代的な迷妄の産物であると決めつける。特に日本の場合はひどい。歴史を見れば明らかだが、オカルトは文化全般の担い手でもあった。ルネサンスから現在までの西欧文化はオカルトに支えられてきたと言っても過言ではない。
オカルトとは元来、ラテン語の「隠す」occulereから来ている。つまり、「隠された-知識」という意味である。なぜ、隠されねばならなかったのか。それは中世キリスト教社会が徹底してそれらの知識を迫害していたからである。隠さなければ殺される。だから、隠されてきた、のである。もし仏教が中世ヨーロッパに広がっていれば、仏教とてオカルトと呼ばれたはずだ。当時は、非正統キリスト教会的な言説であれば、それらはすべてオカルトなのである。
しかし、キリスト教会はなぜにああも神経質に異教を迫害したのか。答えは簡単だ。ウソが暴露される恐怖からだ。オカルトとして伝承されている知識の方が遥かに優れており,正統であるということ。教会はそれを百も承知していたはず、いや、いるはずである。
イエスの誕生日。聖母マリアの果たす役割。十字架上での磔形。十二使徒。復活。etc、キリスト教の教議にまつわる逸話は、そのほとんどがキリスト教出現以前の地中海、東方世界の伝統的な古代宗教から剽窃されている。つまり、バクリだ。イエス=キリスト自体はキリスト教信者ではないので、このパクリに一番気恥ずかしい思いをしているのは、たぶんイエスのはずである。イエスが、もし実在したのならば、彼は徹底したグノーシス主義者だったのではないかと思われる。グノーシス主義自体の裾野は広大で一言では言い表せないが、キリスト教発祥以前に、地中海-中近東地方に流布されていた古代宗教、ミトラ教、ゾロアスター教、マニ教、マンダ教等は、すべて、グノーシス的な色彩を持っていた。プラトンでさえ、広義の意味ではグノーシスと言っていい。
現代人が拠り所としている科学主義も「異端を迫害するのがお好き」という意味においては、ユダヤ-キリスト教の嫡子的性格を持っている。それゆえに、現在のオカルトの定義は、非正統キリスト教会的な言説から、非科学的な教説へと移行しているのだ。科学的な世界観のみを絶対とする唯物主義者たち(今では少なくなってきたのかもしれないが)は、現代のローマ・カトリック教会のようなものである。
さて・・・、ヌースはまぎれもないオカルトである。
ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。(「エゼキエル書」第10章14節)
まもなく、ケルビムが神の戦車とともに現れる。ケルビムは四枚の翼を持ち、上に二枚の羽を広げ、下の二枚の翼は自らの体を覆い隠す。広げられたものが精神で、覆い隠されたものが物質である。「等化」は二つの方向に分岐し、雄牛と獅子の対話のもとに、鷲に変身することを目指し、メルカバーとして天上高く舞い上がって行くことだろう。一方、「中和」は人間の名のもとに、上の二枚の翼の羽ばたきのの影として、飛翔の秘密を物質の中に隠蔽する。電場と磁場の関係を見れば、それらの関係が端的に表されていることが分かる。
今から、人間が持った知性は二つに分岐していく。一つは、来るべき楽園において知識の樹となり得ていくもの。そして、もう一つは生命の樹となり得ていくもの。この二つだ。どちらを選ぶのもそれぞれの自由だ。どちらが正でどちらが邪というものでもない。生命の樹のないところに知識の樹はないし、同時に知識の樹のないところに生命の樹もない。しかし、一つだけ言えることは、知識の樹では宇宙は創造されない、ということである。
——エヴァよ、再度、林檎を口にせよ。
7月 22 2006
人間の条件
ルネ・マグリットの「人間の条件」という作品だ。この絵は画家が絵を描くことの基本的なスタンスを的確に表した概念画のようなものである。マグリットの作品は、以前、紹介した「複製禁止」を初めとして、空間に潜む亀裂、断裂をあたかも測量士のようにきっちりと図式化して再現するものが多い。この作品もその典型である。
室内から見た外部の風景。室内と外部の間にはあたかも風景を切り取るように窓が穿たれている。この窓枠に合わせるようにして、キャンバスが象られ、そこに、外部の風景が詳細に模写される。キャンバス上に描かれた風景はあくまでも2次元上に配置された形態や色彩だが、窓の外に広がる風景は三次元的奥行きを持つ延長としての世界である。
この作品のタイトルにあるように、こうした空間の配置関係が「人間の条件」であることは、ヌースをご存知の皆さんはすぐに了解してくれるだろう。人間はあたかも内部と外部のように感じるなにがしかの空間感覚を持っている。外部は客観世界と呼ばれ、内部は主観世界と呼ばれる。それらはそれぞれこの作品では室外と室内として描かれている空間のことであり、その境界に設けられた窓は目の役割に等しい。画家は視野そのものをタブローとして、この室内と室外の境界面に起きる出来事を作品にするが、それは、ときに感情、ときに思考という反応を通じて、一つの経験の風景としてモチーフ化されていくわけである。
ヌースがまずヌース的思考の大前提として、空間を内面と外面にカテゴライズするのも、この作品が提示している意図と全く同じだ。感情や思考といった主観的な意識の働きは肉体の内部にあるのではない。ましてや、脳の中でもない。この作品で言えば、この窓の形に描かれた「絵画」そのものの上にある。絵画が精神の表現となり得るのは、精神が絵画的であるからにほかならない。ユークリッド空間よりも射影空間の方がより本質的であるように、絵画は決して三次元の風景を平面で表現したものではなく、絵画的なものの方が延長世界へ射影され、三次元認識として開いているのである。その意味で、本当は、絵画的なものの方が高次の生成物である。
まぁ、こんなことは、絵画論の中では言い古されていることだが、この転倒関係をまずはしっかりと認識する必要がある。ヌースではこの作品におけるキャンバス部分を「人間の外面」と呼び、室外風景の方を「人間の内面」と呼ぶが、いずれにしろ、わたしたちは室内から外部を覗くとき、外面に穿たれた窓を通して、それこそ、身体そのものを裏返しにしていると言える。光の皮膚を突き破り、身体の外部へと出血を続ける魂——君も、明日から、自分の部屋の中から外に出るとき、また、反対に外出先から自分の部屋の中へ戻るとき、そこにある空間の捻れに注意を傾けるといい。おそらく、かすかにだろうが、皮膚の裏返る音が聞こえてくるはずだ。
ライプニッツは「モナドには窓はない」と言ったが、それは当然だろう。モナドそのものが窓なのだ。モナドとは二つの対立する世界の継ぎ目、捻れ目に生まれるものなのだ。目の前にその捻れ目が見えてくれば、君もヌースの世界に足を一歩突っ込んだことになる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 1 • Tags: マグリット, モナド, ユークリッド, ライプニッツ, 内面と外面