12月 3 2005
文体三態
スターピープルの原稿がようやく仕上がった。今回与えられたお題は「別の現実」。2〜3時間で簡単に書けると思ったが、案外これが難しい。結局、3日ほどかかってしまった。はっきり言ってデキは悪い。だいたいひっかかりもっかかりしながら書いた文章にはロクなものはない。文章は流れが絶対だ。極端に言えば、文章に内容など必要ない。わぁ!大胆。リズムとテンポがあれば文章は内容を持つ。そういうものだ。
わたしは文章を書く時、つねに物質が持つ三つのアスペクトをイメージしながら書いている。これを勝手に文体三態(ブンタイサンタイ)と名付けているのだが、それは、言うなれば、固体文体、液体文体、気体文体というものだ。一つの文体の流れに飽きがきたら、さっとギアを切り替え文体のアスペクトを変化させる。そうした技が自由自在に操れるようになるのを夢見ているのだが、これがどうしてなかなか難しい。まだまだ、道は遠いが、この文体三体道を何とかマスターしたいものだ。
大したものじゃないが、文体三態について少しばかり説明しておこう。
1、固体文体
これは別名、ロゴス的文体と言っていいものだ。いうなれば一つ一つの言葉の分離度を明確にさせ、読む人に図式的思考を強いる文体である。文章としては全く面白みに欠けるが、論理的に文章を構成したい場合、どうしても必要になる。代表的なものは論文。大学の先生方が書く専門書や教科書、さらにはブルーバックスなどの科学の啓蒙書などに見られる文体がその部類に入る。ただ、こうした文体はどうしても専門用語の「密度」に頼らざるを得ない部分があるので、体裁を整えるにはそれ相当の知識が必要となる。専門用語は当然,様々な知の集積の上に結晶化されて一つの語彙の背景に多くの概念を従えている。固体文体はそうした概念の影のフォローがあってこそ、文として体裁を保つことができているわけだ。言葉が持つ領土化の機能の典型と言える。人間の内面意識の活動の範疇。
2、液体文体
別名、パトス的文体と言っていい。いわゆる書き手の感情や情緒がダイレクトに表現されている文体である。これは語彙の豊富さはほとんど問題ではない。原始的な擬態語や擬音語の羅列や平易な単語だけでも、液体文体の場合はセンスによって文章は珠玉のように輝く。パトス的文体は液体なので、「と」「そして」「しかし」「ゆえに」などの固体をリンクさせるようなギクシャクした接続詞は不要だ。「。」を打とうが、次々に連続性を持って流れて行くのが特徴だ。それぞれの文節は多様体のように振る舞い、メタファーやメトニミーによって自由自在に意識のタテ糸とヨコ糸を縫っていく。人間の外面意識の活動の範疇。
3、気体文体
エトス的文体と言っていいものだ。ワタシ的には、この文体に至って初めて自己表現の文体と言えるのではないかと考えている。固体文体と液体文体を自由自在に織り交ぜながら、等密度で風のように流れていく文体。理性と感性のバランスが取れていなければこうした文体を持つことはできない。論理が詩になり、また詩が論理として響くようになれば、この気体文体の熟達者と言えるだろう。人間の内面の意識と外面の意識の等化活動の範疇。
言葉とは次元を予習しているようなものです。というOCOTの言葉が耳について離れない。言葉は表象の指示機能などではない。言葉は世界が新たに開花するための種子である。種子の中にすべての花は眠っている。言葉をくれぐれも大切に。
12月 10 2005
汝、我、物
さて、いつまでも昔の思い出に浸ってるわけにはいかない。今年一杯に新しい本の企画書をあげなくてはならないからだ。曲作りのときもそうだったが、わたしは本を書くときはまず最初に全体のグランドデザインをじっくりと練ることにしている。もちろん、書き始めてから,途中、その構成プランが変更を余儀なくされることもあるのだが、いずれにせよ、構成という問題はわたしの表現活動にとっては生命線のようなものである。
——新しい本では何をやるべきか。焦点はすでに一つに絞られている。現時点でのヌース理論の体系をできるだけ簡潔に読者に伝えること。これである。ヌース理論の根本は霊的構造を高次元の空間構造として説明することにあるので、当然のことながら高次元空間なるものを2次元という紙媒体を通じて表現しなければならないわけだから、かなり大変である。サイト上でいろいろと試行してきてみたが、やはりまだまだ強度が足りない。強度とは感覚に訴えるものであるから、自らの感覚が体験していなければその伝達は絶対に不可能だ。
ヌース理論は、「理論」と名のつく範囲では、確かに宇宙構造を観照し対象として俯瞰するものだが、頭で「あっ、なるほど、ペンターブ・システムとして拡張していく空間に秘められた対称性の構造が、〈見る〉というモナドとしての基底空間に折り畳まれていることによって、この物質世界が現象化しているわけね。」と頭だけで納得したところで、その真の醍醐味を味わうことはできない。何より重要なことは、理論が展開している無意識構造の内部そのもの中に自らの身体を投げ入れることができるかどうかがカギになる。無意識構造の中に広がる風景を読者に文字度通り一種の身体感覚として「腑に落ち」させなければいけないわけだ。だから、数学や物理の知識は必ずしも必要ではない。宇宙創造の行為においては、ロゴス(論理形式)はあくまでも予習の役割しか持たないのであって、本質は、そうした論理のルーツと目されるイデアを自らの身体として再現させることにあるからだ。このイデア形成の母胎となるものが「汝と我」という、いわゆる「対化」の関係である。
哲学でこの「汝と我」の実存的関係に深く言及していくものは極めて少ない。わたしが知る限りレヴィナスとブーバーぐらいのものである。ヌース理論もまた彼らの哲学同様、「汝と我」がいなければ何も始まらない。知覚もない。概念もない、一切の物理現象も存在しない。もちろん数も幾何学も存在しない。「我と汝」とは、そのような「根源的2なるもの=線なるもの=磁場なるもの」として解釈されなければならないのだ。それは、いわば神にとっての「二つ」と言っていい。
天上と地上とそれら両者を媒介する中間領域。ヌースではこの三者関係をオリオン、プレアデス、シリウスと呼んでいるが、何のことはない、これらは、汝、我、物のことに他ならない。われわれが神的なものへと変身を遂げるためには、まずは「我」を獲得し、そこから「物」自体へと至り、そこを突抜け彼岸たる「汝」の世界へと入ることが必要である。秘教的なもののすべては、この3段階のプロセスの中に集約されている。そのルートを一つの身体感覚として明確に読者に追体験させることができれば、次回の執筆は成功と言えるだろう。しつこいかもしれないが、あなたとわたしともの。。この三つの観念としての支点からすべての創造が始まるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: オリオン, プレアデス, モナド, レヴィナス, ロゴス