3月 5 2006
不連続的差異論
最近、トラックバックを張っていただいた「不連続的差異論」というサイトに先日、初めて顔を出した。好意的にヌース理論を紹介してくれていて、ヌース理論と現代思想の擦り合わせの場としてはかなり参考になるサイトである。
不連続的差異論のサイト
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000234525.html
ヌース会議室の方にも書いたが、ヌース理論をヌース理論の土俵でヌース理論独特の用語で語る時期はもう終わったのかもしれない。最初の頃はわたし自身、ヌースが持った目新しい意識分析の視座の紹介に自然と力みが入り、「位置の交換」や「位置の等化」といったヌース用語自体の特殊性に自己満足していたふしがあった。しかし、これからはこうした態度は改められるべきなのだろう。それはそれで持論の中で保持しながら、より、既存の学問の範疇の中での概念との接点を模索する必要がある。
スピリチュアル世界を含めた既存の哲学や宗教思想などの延長線上で、ヌース理論の立ち位置を再度、確認し直すこと。こうした地道な作業が必要とされる。その意味で、わたし自身、自分の理論の枠内に止まってそこに閉じこもって構えるのではなく、様々な思考の現場に自ら赴いていって、様々な人たちと意見を交わらせることが大事だと思うに至った。でなければ、単なるカルトに終わってしまう。
「不連続的差異論」はイデア創造論である。ドゥルーズ哲学の中では明確にされなかった潜在的イデアと顕在的イデアの差異を、哲学・思想史の俯瞰的位置から指摘し、その絶対的な差異の直立の必要性を提唱している特異な論である。
ざっと一覧した限りではあるが、少なくともイデアなるものの絶対的差異を説いている意味においては、ヌース理論と極めて近いものを感じ、親近感を感じる。ヌース理論の思想・哲学的側面に興味がある方は是非、この不連続的差異論のサイトの方も覗いてみることをおすすめしたい。不連続的差異論においては、世界の成り立ちを、現象界・メディア界・イデア界という三層構造で見ており、これら三層の諸関係性を模索している。不連続的差異論とヌース理論を対応させて見るときは、これら三つの領界をヌース理論に登場する次のような概念とオーバーラップさせてみると分かりやすいのではないかと思う。
現象界………人間の内面の意識総体/体系観察子Ω1
メディア界………人間の外面の意識総体/大系観察子Ω2
イデア界………顕在化としての対化/Ω3〜Ω4、もしくはそれ以上の観察子領域
不連続的差異論においては、イデアが持つ不連続的差異の具体的な構造性についてはまだ論は進んでいないようだが、イデアを潜在的なものと、顕在的なものに区別して思考するという着眼点で展開している。そこがヌース理論と極めて相性がいいのだ。この理論はまだ自他関係が持つ双対性の、イデア構造への適用については触れてはいないが、これから、具体化していくにつれて、論の中に組み込まれていくことになるやもしれない。わたしの方は、現代思想に登場する諸概念のヌース的配置を確認していく上でも、しばらく擦り合わせを続けていってみようと思う。
ヌース理論の理論内容をヌース用語を使用せずに、既存の哲学用語でどこまで説明することができるのか、その限界点を見極める上でも積極的にコメントを出していきたいと思っている。
3月 11 2006
核質化した不連続質
本がちょっと煮詰まっているので、その煮詰まりをこっちに捨てる。
既刊の3冊のヌース本にはまだ顔を出していないが、ヌース理論には核質・無核質・反核質という三位一体の重要概念がある。これらは普通の言葉で表現すれば、モノの現象化の力、モノの知覚化としての力、モノの存在化としての力といったような意味を持っている。(現象化させるのが存在化、という意味で使用している)
例えば、今、目の前にライターがあるとすれば、ライターという物体が外界にあるという認識が核質、それを見たり触ったり嗅いだりして、ライターの実在が実感として生まれている状態が無核質、そして、ライター自体がそのもの自体として真に存在している力が反核質と考えていい。より分かりやすく言えば、虚像としてのライター、そのライターを見る者、実像としてのライターという言い方にでもなるだろうか。
例えば、わたしが持っているライターがZippoのビンテージものだとする。それをトンとテーブルの上に立てて、「どや、ええやろう。」と君に自慢したとしよう。君がわたしと同じような趣味を持った人間であれば、そのZippoが欲しいと思うはずだ。果たして、その所有の欲望はどこからくるのだろうか。
核質とは一つの個物をまさしく唯一性として三次元世界に固定する力である。しかし、なぜか見ている主観は君と僕とに分かれている。つまり、核質は「1」であるのに対し、無核質は「2」に分かれているのだ(正確には無数)。そして、そうした「2」が再び個物の方向とは逆方向で「1」に統一されている場所がある。それが「反核質」というところだと考えておけばいい。まぁ、哲学的に言えば、客観性と主観性と間主観性といったところか。。
つまり、君と僕とは下なる「1」と上なる「1」の間に挟まれた異なる「2」であるということなのだ。下なる「1」をモノと呼ぶならば、上なる「1」がヌースがいうヒトである。ただし、困ったことに、こうした上下という方向が見えない人間にとっては、これらは同じモノに見えてしまう。本来、1なるものを意味する「愛」が、似て非なる二つの種族になって出現してくる背景には、こうした裏事情があるわけだ。
さて、となれば、このライターが欲しい。いくら金を積んでもいいから欲しい。いや、正直いうと盗んででも欲しい。。といった君の欲望を駆り立てている張本人は、上なる真実のライターそれ自身である、ということが言えまいか。というのも、上なるライターにはそもそも「2」がないからである。つまり、そこでは見るものの領域(主観)である無核質はすべて一つになって統一化されているのだ。だから、この「一」への吸引の力は、事物として二つの主観を統一したいという等化力を、二つに分裂している主観に浴びせかけてくると考えられるのだ。
つまり、君が僕のライターを欲望しているのではなく、僕のライターが君を欲望している。その結果、君はこのライターに魅せられている、ということになる。
そうこうして、この等化力は磁力のように無核質にも一つになることを要求してくるはずなのだが、ところが、そんなにうまく事は運ばない。それはなぜか——。理由は単純だ。無核質には核質側からも統合化の引力が働いており、このライターはモノとして一つなんだからそっちに行ってはいけない、という強固な強制力を作用させているからだ。「神はダブルバインドである。」というドゥルーズ=ガタリの言葉の真意もここにある。
このオイディプス的な矯正力は強力なもので、モノ=物質という同一性の場の中で、「2」に分離している無核質をほとんど見えなくさせるぐらいの勢力を持って、現在も暴れ回っている。無核質が、核質に幻惑されると、身体は物質的肉体としてしか見なされることはない。この同一化の中では、あいつとオレとは別の生き物(主観=無核質)であるにも関わらず、オレかあいつか白黒はっきりつけたい欲求が生まれてくる。あいつが白ならアーリマン的な世界に引きずり込まれ、、オレが白ならルシフェル的な世界が待っている。物質ファシズムと身体ファシズム。いずれにしろ、ここには悪魔的ものしか生まれることはない。科学主義と、宗教主義や身体主義はそれぞれの代表と言っていい。いずれにしろ同一性が生んだ魔物なのだ。
こうして、無核質は上なるライターの統合力を、上を知らない者として経験するがゆえに、他者のモノを我が者にしたいという欲望に駆り立てられるのだ。君自身が核質に引っぱりこまれれば、君は同一化帝国の皇帝に君臨し、それが帝国の平和だと信じて、徹底して世界を我が者にしようと頑張るだろう。政治の世界を見ればそれはよく分かる。
君が力のせめぎ合いのところにかろうじて位置を保てていれば、君は正常な人間である。正常な人間においては、彼のものは彼のもの、わたしのものはわたしのものという、当たり前の割り切りを持って所有の分有を行うことになる。しかし、それでも、君の所有欲が消失するわけではない。君はこの欲望のバランスを保つために相当の疲弊を強いられていることをよく知っているはずだ。君のように意思を持った正常な人間であっても、このバランスを取るのがやっとのところなのだ。
カバラにいう「神の縮退(ツイムツーム)」や「器の破壊(シェビラート・ハ=ケリーム)」とは、このように、無核質の場所が人間の世界認識において行方不明になっている状態のことを意味すると考えていい。核質-反核質結合によって、無核質がズタズタに切り裂かれているということ。器をいかにして修復するか、つまり、無核質をいかなる手法によって縫合し直すか、それがヌース理論が手始めに着手している作業である。
父と子の間に交わされたユダヤ的契約を解除し、
聖霊の群れを再び世界に出現させること。
ヘルメスが持った竪琴の糸を天界へと再び張り巡らすこと。
宇宙的音楽をケイブに再び、鳴り響かせること。
彼岸をプタハの架け橋によって対岸に出現させること。
いずれにしろ、そのためには上の世界にあるモノをこの地上に引き下ろしてこなくてはならない。それが超越を現実へと導く唯一の手段なのだ。君にこれら二つのモノを見る視力はあるか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カバラ, ドゥルーズ, ユダヤ