2月 5 2007
サルにしか分からないかも
14回にわたって、「差異と反復」というお題でヌース理論における空間認識の導入部を紹介したつもりだったが、周囲から「難しい・・・」というお叱りの言葉をいただいている。とほほ。まだまだわしも修行が足りんなぁ。自分の感覚に上がってきているものを人様に伝えるためには、もっともっと概念にこなれる必要があるのだろう。これが実際に目で見えるものならば伝達も簡単なのだろうが、こと概念のカタチとなると、それこそ、何度も反復を繰り返さないと、差異のイメージは得られてこないってことだな。でも、このψ3とψ4という最初のポータル(入口)が見出せないと、ヌース理論の醍醐味はなかなか理解してもらえそうもない。お客さんが来なけりゃ、いくら看板を上げていても商売上がったりだ。在庫の山を抱えて倒産するのはごめんなので、ここはとにかくもっともっと平易な説明を心がけてみよう。クドくなるかもしれないが、しつこく行きますよぉ~。
サルしか分からないヌース理論・・・位置の交換編
ここに一つの球体がある。表面はブルーに塗ってあり、表面の裏面(表面のウラという意味でヌースでは「面表」といいます)はレッドに塗ってある。
ここで今、この球体を想像力の中で膨らませていってみよう。すると、その球体は君を飲み込み、君は内壁がレッドの球体によってすっぽりと包まれることになる。宇宙の広がりは半径137億光年ある、なんてイメージもその手のイメージの最たるものだ。とすると、そのときイメージされている空間はモノの内部の空間を膨らませていったもので、モノの外部はいつのまにか宇宙の外に追いやられていることになってしまう。でも、君が実際に居る場所はモノの外部の空間だ。自分はモノの外部にいるのに、モノの内部の空間イメージが勝手に暴走してモノの外部を駆逐していってる。これは言い換えれば、君はいつもモノの中に閉じ込められていることと同じ意味ではないのか、と言ってるわけだ。だから、そういったイメージで宇宙を見ている限り、君はモノの外からモノを見ていないということになる。だから、大きさなんて概念で宇宙を捉えている限り、みんなモノの中にいるんだ。そして、その空間認識ではリアルにモノは見えない。リアルにモノが見えていないということは、目を閉じている、もしくは眠っているも同然だ。
「半田のバカ、何言ってやがる、ちゃんと見えてるぞ。」と君は反論するかもしれない。
しかし、残念ながらそれは違う。なぜなら、君は今見えているモノや空間を対象と思っているだろ。そう思っているんだったら、やっぱり君にはモノも空間も見えていない、としか言いようがない。というのも、実際に目の前にあるモノや空間は「見えているもの」ではなくて「「見ている者」、つまり君自身だからだ。自分を包み込む球体の内壁をレッドと認識した時点で、実は君がモノと呼んでいるモノの表面も、最初のブルーからレッド(面表)に裏返ってしまっているんだよ(下図1参照)。
どういうことかもっと説明しろって?実際に君の目の前にあるモノの背景面としての天球面はレッドではなく、ブルーだからさ。光ってやつはもともと3次元空間を捻らせたカタチを持っている。3次元の捩じれというのは僕が常々言っている「反転」の意味だ。だから、君がモノの背景面として見ている面は、実際に見えているモノのブルーの表面がどんどん縮んでいってそれが中心点で反転して広がっていってできているものと考えなくちゃいけない。とすると、その面はブルーのはずだろ?本来ブルーであるものを、レッドでイメージしているとすれば、君にはその気がなくても内部と外部がひっくり返った空間の中にいつの間にか君は迷い込んでいることになる。だから、僕らが外界とか宇宙とか呼んでいる空間の内壁はほとんどの場合、真っ赤かに染め上げられてしまっているのさ。
何で本来ブルーである内壁をレッドのように錯覚してしまったのかだって?理由は君自身のこの世への出現の仕方にある。それは君が他者の目を通して自分の姿形をイメージしているからなんだ。つまり、他者の視野の中に映っている自分を自分と思っているからなんだ。他者の視野は他者にとってはもちろんブルー一色(ψ*3)だが、君にとってはレッドになってしまう(ψ4)。それに、いつも言ってるだろ。君の視野世界は他者から見ると単なる直径2mm前後の点同然の穴なんだぜ。でも、その穴の中にいる君にとってその穴が点に見えているかい?見えるわけがないよな。点どころか宇宙のまるまる半分を映し出す巨大な窓のようになってる。このことの意味をよぉ~く考えないとだめだ。
これも前に言ったよな。鏡ってのは左右を反転させているんじゃなくて、内部と外部を逆転させているんだって。鏡に映された自分の目をよく見てみろよ。その目が鏡像だとしたら、その実像とは一体何だ?それは視野空間そのものだろ。ぐでんとひっくり返っているんだよ。内と外がね。君は他者の目を通して自分を認識したとたんに、ブルーからレッドに反転させられているんだな。モノの手前に感覚化されているオレという存在ってのは、そうやって視野空間そのものがあたかも点のように反転させられて、モノの手前に出現させられてきたオレなのさ。だからいつも言ってるだろ、一度首を切ってヘッドレスになれって。
モノの手前側にいる自分というのは、本当の自分が自分を対象として見れるようになるために作り上げた分身なんだ。君の中に自分のことを自分って呼んでいるヤツがいるだろ。「オレってバカだよなあ。」とか「オレって結構カッコいいかも。」とか言ってるヤツ。それが本当の自分だ。でも、そいつのことを決して言葉で名指すことはできない。というのも、名指しした時点で、それは「名指しされたもの」になってしまうから、名指ししている張本人はスルリと身をかわしていつも逃げてしまう。まぁ、ウナギのようにつかみどころがないやつなんだなこいつは。その意味で、本当の自分は、言葉では永久に指し示すことができないヤツなわけだ。モノの手前にいる自分はその意味で「名指しされたもの」なわけだよ。名指ししている当の本人じゃない。まぁ、自分ってのは、もともとこのように自らを二つに分けてるから「自分」っていうんだけどな。
じゃあ、オレのことをオレって呼んでいる本当の自分はどこにいるのかって? だから言ってるだろ。モノの手前ではなく反対側を探せって。。。。それが見つかったときのことをヌースでは「位置の交換」って呼んでいるわけさ。そのとき、世界はブルー一色に染まるぜ。そこが青空ってやつさ(下図2参照)。
2月 9 2007
前向きに生きろ!!
ヌース理論の考え方では身体の「前」と「後」は全く違った空間である。普通、僕らの常識の中では、「前」も「後」も身体を中心とした3次元性(x,y,z)の中の一本の座標軸の方向ぐらいにしか考えられていないが、こうした空間認識は近代特有の眼差しが持った視座によるものであり、この眼差しは、何一つ、現実のわたし自身が見ている「前」の空間に接触を持っていない。
言うまでもなく、「前」はわたしが世界と関わるにおいて必要不可欠な方向である。世界は「前」において開示し、「前」においてその存在を露わにしている。「前」は、その意味で3次元空間からすでにはみ出ている。なぜなら、客観的な3次元性のどの方向も「前」になりうるし、また「前」はその治外法権的特権を持って客観的な3次元のあらゆる方向を観測することができているからだ。
試しにモノを回転させてみよう。当たり前のことだが、「前」の中にモノの表面のすべての見えは映し出されてくる。では今度はモノの周囲を回ってみよう。ここではモノの背景の見えが次々に変わって行くが、しかしながら、そこは相も変わらず「前」である。今度は、前後・左右・上下方向を向いてみよう。それらのどの方向もやはり「前」であることは言うまでもない。「前」という方向に引かれている線分は、その意味で僕らが認識している3次元世界のすべての方向をその一本の方向の中に束ねている。このことは誰も否定できないはずだ。つまり「前」という方向は3次元的な並進や回転運動(ユークリッド運動群)に対し何ら影響を受けない空間の方向性なのだ。「前」という方向のこうした在り方を、3次元を超越しているという意味で「4次元」と呼んでいけない理由がどこにあろう。
「前」とはわたしが人生を経験する場である。わたしは「前」でいろいろな人と出会い、「前」で様々な事件と遭遇する。「前」はわたしの記憶となるべき風景の断片を次々と連鎖的にあたかも映画のスクリーンのように送り出してくる。「わたし」はわたし自身においては決して3次元の中を動く対象物なんかではない。むしろわたしは世界に対して「不動の大地(フッサール)」とも呼べる存在である。こうした不動性があるからこそ、わたしはそのパースペクティブにおいて「わたし」という固有のアイデンティーを持つことが可能となっている(常々言っているように、この4次元が「奥行き= i軸」として、客観的な3次元認識においては点(dx,dy,dz)の中に畳み込まれているのは言うまでもない)——「i軸としてのわたし」は生まれてこのかた、微動だにしたことがないのだ。
一方、「後」という方向は全く違う性質を持っている。まず、当たり前のことだが「後」は見えない。たとえ「後」を振り返ったとしてもそこは「前」であるから、肉眼では「後」は決して見ることができない。そこで、致し方なく、僕らは鏡を使って「後」を見ようとする。そうすると、なるほど「後」はあたかも「後」を振り返ったときの「前」と同じような風景として見えてくる。しかし、それは似てはいるものの同じ風景ではない。なぜなら、鏡の中の風景は左右が反転して見えているからだ。しかし、いつも言ってるように、この反転は実のところ左右の反転などといった生易しい反転ではなく、内部と外部間における激烈な反転なのである。内部と外部の反転とは4次元の反転の意味を持つ。つまり、前と後とでは4次元の方向が逆になっているのだ。
僕らの意識はこの鏡の役割と似たものを内在化させている。それが他者の眼差しに対する想像力である。僕らは対峙する他者の眼差しに映っているであろう「前」を通して「後」をイメージしている。そこには当然、僕の顔もあることだろう。僕が自分の顔を想像するということは、意識が鏡を通して「後」を見ているということにほぼ等しいわけだ。そのとき、やはり4次元はぐでんと反転している。あのナルシスの話を僕らは忘れてはいけない。
おそらく「前」における世界の見えの変化は「持続(ベルクソン)」と呼ばれているものだろう。そこには距離もなければ時間もないし、普通の意味でのわたしもいない。あるのは記憶であり、記憶があるゆえの生の物質がある。一方「後」における4次元は「時間」に相当するものだろう。そこには記憶はない。記憶がないのだから当然、物質もない。ただ実在から引きはがされた顔を持つわたしや想像された物質が言語として漂っているだけだ。おそらく時間とは、持続を一連の秩序立てられた流れとして把握するために、理性が不動の「前」を「後」の中に介入させることによって作り上げた序列概念にすぎないのだろう。時間よりも先に「持続(外面上の変化)」がある。いつ何時も「後」は「前」の影として遅れてやってくるのである。
簡単に説明するつもりが、また難しくなってしまった。申し訳ない。しかし、以上の話の内容で、ヌースが考える「前」と「後」の関係がおおむねお分かりいただいのではないかと思う。ヌース理論の考え方においては、4次元空間と4次元時空の関係は身体における「前」と「後」に集約されている。時空は見える世界ではない。モノの空間と身体の空間とは全く別物なのである。
上写真はサルバドール・ダリ「ナルシスの変貌」
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, ユークリッド