9月 2 2006
金星の少女、水星の少年
ヌース理論は「潜在化」と「顕在化」という語句に対して特別な用い方をする。「潜在化」とは現在の人間の意識状態、「顕在化」とはヌース的な意味での意識の覚醒を意味する。ここで「覚醒」などといった俗っぽい表現を用いると、またヤジが飛んできそうだが、ヌースが用いる「覚醒」とは創造に等しい。創造とはもちろん新しい宇宙の再生へと着手する行為のことを意味する。
創造は4次元認識の獲得から始まるが、これは端的に言って、今まで90度と見ていたものを60度として見ろ、ということでもある。つまり、角度概念を2/3の比率へと変化させれば4次元に出られますよ、と言ってるわけだ。これは三次元を平面上のヘクサグラムと見て、4次元座標を正六面体の4本の立体対角線と見ることに等しい。おいおい、そんなイージーな語り口じゃ、理論の信憑性が疑われても仕方ないぞ。。と先に一人ヤジを飛ばしておこう。
まぁ、それはそれとして、この変換で起こる概念の生成はとても大事なものだ、とだけ、ここでは言っておこう。確か、以前、トーラス氏もこの変換の重要性を説いていた。おっ、あった、あった、これこれ。
詳細を知りたい方はこちらへ→プロジェクト・メタトロン/http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-02/253.htm
ヌースでいう4次元認識の獲得とは、トーラス氏のいう「12」のシステムから「13」のシステムへの移行のことを意味する。「13」は眠っている。その眠れる「13」とは、ほかでもない創造の種子としての地球自身のことである。「13」を起こすカギは眠れる「14」としての「月」が持っている。月は高次元認識力の塊である。しかし、いかんせん寝ている。この眠れる月が持った螺旋状の上昇力を。明晰な知性として出現させること。これがヌース理論が目指すところである。
ヌースの場合は、この「12」から「13」への移行」とは、次元観察子のシステムにおける序数の意味となる。つまり、地球は今からψ1〜ψ12のシステムから、ψ13のシステムへと移行するという意味だ。現在、次元観察子ψ13はψ*1に化けてψ1〜ψ12、ψ*1〜ψ*12の双対構造の中をグルグル回っているのだ。このψ13が目覚めれば、月が作っている次元の柵は破れ、人間の意識は太陽系の黄道面上へ流れ出す。このことがが先に述べた「顕在化」の意味だ。
これは神秘学的に言えば、今まで月が受け持っていた働きを水星に移し替えるという意味を持つ。アッシャー界からイェッツェラー界への上昇が始まるのである。そのとき、地球が受け持っていた役割はかの金星へと委譲されることになる。人間の意識システムの水星/金星レベルへの上昇——ヘルメスとアフロディーテの出現である。これは宇宙的少年と少女の出現と言っていい。この両者が恋に落ちるとき、彼らの恋愛体である賢者の石(ヘルマフロディートス)が成就してくる。これが新しい太陽神ホルスのことである。
イシスが探し求めたという死せるオシリスの生殖器——それは「14」で象徴されていたという。この「14」をイシスがなかなか見つけられなかったのも無理はない。それはイシス自身の中に秘められた女の力でもあったからだ。その力を原子番号14番のケイ素に因んでクリスタル・ハルモニアと呼んでみよう。クリスタル・ハルモニアとは眠れる「14」の力であり、それはあくまでも「純水」に支配された言葉としての力、つまり詩の力であった。もちろん、詩の力は芸術として最高峰のものだと思うが、女は女のほんとうの力をもっと知るべきではないのか。
女とはその本来が両性具有者なのだ。そのことに女自身が気づけば「13」は目覚める。なぜならば、顕在化の「13」とは、露になった「14」のそのもののことだからだ。露になった「14」とは、詩的論理の知性への浮上と言い換えることができる。詩はなぜあれほどまでに力を持っているのか、そこには通常の論理を上回るより超越的な知性の力が作用しているからだ。人間の女の胎の中には男も女も宿る。それと同じで宇宙的女の中にも男と女が宿るのだ。この受胎告知において、女は両性具有者と呼ばれる存在に変身するのである。
ついでにもう一言。顕在化においては、少女は火の神となり、少年は水の神となる。ペンタグラムとヘクサグラムである。これらは聖書ではソドムの天使と呼ばれるもののことだろう。両者は見事な調和を見せ、この地球と月を金星と水星に変えて行く。僕は本当の水星の言葉を聞きたい。そして、本当の金星の美を見てみたい。だからヌースをやっている。生命の火を煌々と輝かしながら、太陽に向かって螺旋階段を昇っていく女神アフロディーテ、そして、その傍らで軽やかに飛翔しながら幾何学模様を描くヘルメス。二人はもう目覚めている。
9月 4 2006
ツイスターの思い出
僕には苦い思い出がある。その記憶は今でも鮮烈だ。その経験のせいでヌースのようなことをやり続けているんじゃないか、と思う事もある。
小学校に入学したばかりの頃だった。最初に「右」と「左」という方向のことを習ったときのことだ。先生は教壇に立って言う。「こちらが右手です。」僕は先生が挙げた方と同じ手を挙げて思う。「こっちが右手か。。。」そしたら、先生がいきなり、教壇から降りてきて、「違いますよ、ひろのぶくん、こっちです。」と反対の手を挙げさせた。
文字通り右も左も分からなかった僕は、何がなんだか分からなくなり、パニくった。先生が挙げた方と同じ手を挙げたのに、先生はそれは違うというのだ。慌てた僕にさらに追い打ちがかかる。その先生は生徒たちを相手に右と左を覚えさせるために、旗揚げゲームならぬ「お手上げ」ゲームを始めたのだ。
「はい、右手を挙げて〜。」「はい、次は左手〜。」「はい、左手おろして、右手をあげて〜。」
かんべんしてくれ。右と左さえもよく理解できていない僕にそんなことをさせないでくれ。僕は仕方なく、皆の真似をして、振り付けを覚えていないダンサーのように、一呼吸タイミングを遅らせて手を挙げるしかなかった。周囲の同級生たちを見渡すと、僕と同じような奴らが結構いた。おそらく1/4ぐらいだったと思う。おどおどしながら周りを伺いながら手を挙げてるやつ。意味も分からず両手をずっと挙げて笑っているやつ。いつのときでも人間は変わらない。想像界からなかなか抜けきれなかった僕は、こうして「恥」の洗礼を浴び、象徴界へと引き込まれていくことになる。
小学1年生と言えば、年齢でいうと6〜7歳だ。当時の僕の意識はまだ外界と内界の区別が曖昧だったのだろう。左右認識の曖昧さと内界外界認識の曖昧さは深く関係している。 「前」という方向、それはほんとうの僕がいるところである。幼児たちはまだその世界の中にいる。左右という方向の分別がつきだすと、突如として前はベリベと音を立てて、「前」と「手前」に引きはがされるのだ。そこに奥行きが生まれ、世界そのものだった僕が、世界と偽の僕とに分化する。そして、その偽の僕には「ひろのぶくん」という名前が刻印され、僕は文字通り、そこから小学生という肩書きを持って、社会の中で言葉として生きる人間となり、今では「半田広宣」に成りきって、あたかも一つの実体であるかのように振る舞っている。
「ひろのぶくん。ひろのぶくん。違いますよ、それは左手ですよ。」
僕には今でもあの先生の声が忘れられない。彼女は何をしたかったのだろう——。ヨハネの首を切り落として、その血塗られた頭部をそっと僕の首の上にすげたのだろうか。呪いのかかった首には今では蛇がうじゃうじゃ巻きついて、半田広宣という幻想から逃れられないでいる。
前-後(奥行き)を認識しているのは左右からの認識である。認識の視線が前後方向から左右方向に方向を変えるとき、人間の意識は同時に想像界から象徴界への参入を余儀なくされる。点だったものがグルリと90度横回転し、直線になる。そして、その直線がかつて点だったものを直線と見なすようになる。直線と見なされた点とは本当に点なのか?いや、どう考えても違う。それは時空上のあらゆる風景を経験することのできる僕の知覚野=前ではなかったのか——。
さて、ツイスター空間についてのよくある説明——光の伝幡する軌跡は、物理的時空の中では直線となるが、ツイスター空間の中では、一つの点となる。光の軌跡は、すなわち相互作用の伝搬する軌跡に他ならないから、ツイスター空間は、相互作用によって結ばれた時空の点の集合を、ひとまとめにして点として表した空間だと考えることができる。
ヌースの説明——僕の前と君の前が交差するところがツイスター空間である。点のイデアはそこに結び目として生まれてくる。。。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0