11月 17 2006
ヘッドハンターのひとりごと
人間の頭をいかにして刈っていくか。それが問題だ。頭は世界を観察するための中枢のように考えられている。brain in the pod——容器の中の脳みそ。脳は確かに精神の映し絵となるものだろうが、脳に意識の本質なんてものはありゃしない。頭蓋骨を切り開いて、自分の脳みそを皿の上に乗せる。神経の束だけは切断せずにおこう。眼球が捉える数ポンドの灰白質のかたまり。こんな白子の中にオレの魂が詰まっているなんて笑わせてくれるじゃないか。湯通しでもして、ポン酢につけて食っちまえ。
脳が自分の脳を物質的なものとして外部に見出すとき、認識はどのようなループを持って、脳の外部と内部をつないでいるのか。意識で言う内部とは単なる容器の内部のようなものじゃない。そろそろこのクソ狭い内部から脱出したくないか。窒息しそうだ。それにしても人間はどうして自分の頭部を世界の中心に置きたがるんだろなあ?対象世界を観察する能力が観測者たる主体の定義であるとするなら、主体は観測している現場そのものの中に敷衍して存在しているのじゃないか?オレはそう思えてならないが。
試しに周囲をグルリと見回してみろよ。今のアンタにゃ際限なく空間が広がっているように感じるだろうが、それってひょっとしておまえさんの頭の中じゃないのか?おまえさんがいる場所とその周囲に広がる無際限の空間の果てをおまえさんは区別できるのか?
できるというなら、おまえさんはもう終わってる。宇宙っての巨大なフルヘルメットなんだぜ。その際限のない空間の果てを科学者たちは特異点などと呼んで気どってやがるが、それがアンタがいる場所じゃないのかって言ってるんだけどな?はるか彼方の球面が一気に点に化けちまって、宇宙そのものだったアンタがちっぽけな頭に変えられちまった。。
なぁ、とるに足らない点のアンタよ、自分を点に縮めて一体何がやりたいんだ?貯金か?センズリか?ちっ、全くやってられねぇーぜ。だいたいアンタは人の目を気にしすぎるんだよ。たくさんの目がフルヘルの中心に向かって、君とか、あなたとか、オマエとか、テメェーとかいろいろ言ってくるだろ。お人好しのアンタは、そうした無数の他者の視点の交差点に焦点化された存在を自分だと思い込まされてしまっている。そんな焦点なんぞ早くバラしちまいな。あんたの居場所はもっと神聖なところにあるんだせ。科学者たちは宇宙の始まりの場所とか呼んでるけどな。
ほ〜ら星空を見上げてみろよ。あの奥にな数え切れないほどの銀河を包み込んでいるシャボン玉がある。表面は虹色に輝いていてな、そりゃたいそうデリケートな膜だ。どんな人間もそこから派遣されているのさ。玉があって、点に縮んで、また玉に戻る。玉に戻ったら、玉の外に突き抜けてあっちに行くんだぜ。わかるかあっちって?そこに本当のアンタがいるよ。本当のアンタはチョーいかしてるぜ。
時空上に散在する観測者の位置としての点。それは事実として無限遠点である。
しばらく間が空いたので、間に合わせの走り書き。。。読んでくれている皆さんには申し訳ない。。
11月 26 2006
「2013:人類が神を見る日」 米国出版決定!!
「2013:人類が神を見る日」のアメリカでの英訳出版が決まった。順調に行けば来年の夏当たりにはアメリカでヌースがデビューすることになる。
翻訳はカナダ在住のAさん、ブックデザインはzavtoneのzatoさん、版元はN社。日本のスピリチュアル関係の書籍がアメリカで売れた前例はないが、年間書籍売上高はアメリカの場合、日本の5倍以上あるという。ことスピリチュアル関連の図書に関しては10倍近いとも聞いた。日本でこの10年間に3万部程度の売り上げを示したこの本がアメリカでどの程度、数字を延ばすか楽しみではある。まあ、捕らぬタヌキの何とやらではあるが、部数そのものよりも、ヌース理論のような考え方が向こうのニューエイジャーにどの程度受け入れられるか、それを是非見てみたい。
ヌース理論の思想的背景は徹底したヘルメス主義である。「上にあるがごとく、下にかくあり。」物質の世界はすべて精神の世界の影であると考えるわけだ。現在、科学はこの宇宙がビッグバンから始まり、原子、恒星、惑星、生化学物質という生成のルートを辿って人間が出現してきたと考えている。ここで展開されている進化のイメージはすべて物質的表象を用いたものだ。ヌース的思考ではこれらのシナリオはすべて精神進化の物語へと置き換えられる。つまり創造のプロセスは不可視の意識的流動の中で起こったと考えるのだ。であるから、素粒子に始まる原子、分子、物質、恒星、惑星、生物等の物質的存在もすべて意識の影である。それらがどのような意識的様態であるのか、そのすべての対応性を読み解いて行くのがヌースの醍醐味だ。そして、その読み解きの過程がそのまま新しい創造へとつながっていくと考える。その意味でヌース的な思考に入ったときには新しい創造期が始まった、とも言える。創造のプネウマの光はまだ原初の小さな小さな点滅にすぎないかもしれない。しかし、この先確実に生命樹を照らし出す発光体へと成長していくことだろう。
時空内で流動する万物を創造した神的な精神。そういったものが存在していると仮定しよう。この精神が創造されたものの外部にいるのは当たり前である。創造は時空の外部で為されるものなのだ。言い換えれば、創造された世界とは時空を超えた場所で蠢く何らかの力能の所産でもある。だから、創造について想いを馳せるには、僕らは時空の外部に出なければならない。その時空の外部は、現代科学では皮肉にも内部空間と呼ばれている。そして、そこは素粒子の構造が記述されるある抽象的な空間となっている。 時空上の一点一点に張り付いたこの内部空間こそが、楽園への扉である、というのがヌースが10年以上も前から行っている主張である。マクロを支配する時空は素粒子においてミクロと接合している。この結節に存在させられているのが人間という存在なのだ。
内部空間は数学的には複素数で表される空間なので、自然現象を実数でしか把握できない科学的知においては、その対応物を見出すことができないでいる。しかし、それは空間に対する認識が実数側に偏っているからにすぎない。虚空間に対応させることのできる空間は現実に存在する。いや、むしろ、その空間の方が僕らの現実と言っていいものだ。
実空間——想像的なもの。虚空間——現実的なもの。想像的なものと現実的なものの共同作業ですべての認識は形作られて行く。内部空間の本質は僕らが「前」と呼ぶところにあり、時空の本質は僕らが「後ろ」と呼ぶところにある。前は実像であり、後ろは鏡像である。前の集合としての空間と、後ろの集合としての空間の差異が見えれば、時空と内部空間の問題は一気に解決する。水の鏡の中から抜け出すこと。想像的自我の位置から真の主体の位置へ一気に反転を挙行すること。僕らは地上にいるのではなく、天にいるのだ。
オカルティズムの本場である西洋文化圏においてヌースの跳躍の技術がどのように受け取られるか、今から楽しみだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 10 • Tags: 人類が神を見る日, 素粒子