12月 7 2006
消えた「前」を探せ!! 2
消失した「前」。時空という概念が「後」という方向の回転により概念化されている広がりであるとしたら、当然、この「前」方向の回転により生まれている空間は時空内では記述することはできない。時空内には存在しないとすれば、当然、そこは過去でも未来でもないし、遠くでも近くでもない場所ということになる。そういう場所のことを僕らは何と呼べばいいのだろうか——おそらく、呼び名として最も適しているのは「今、ここ、ほんとうのわたし」である。つまり、「前」とは光速度に達しているものだけに見える世界なのである。
「今、ここ、ほんとうのわたし」としての「前」には、言うまでもなく、ほんとうの現実がある。事実、知覚野は前を中心に展開し、記憶は前で集積されているような感覚を受ける。僕らはコウモリさながら後の空間に満たされた意識の波動を前に照射し、主体であった場所を客体として誤認する。この想像的な「後」を代表しているものは何と言っても「顔」だろう。「前」が「顔」を見るためには鏡を使うしかない。そして、その顔に登録されるのが名だ。この顔と名の誕生によって想像的自我の足場が固まる。何年何月何日、わたし半田広宣はどこどこで何々をした。自我は言葉が好きである。自我が言葉を弄ぶほど、「今、ここ、ほんとうのわたし」はバラバラにされていく。現実的なものから想像的なものへの逸脱。次元転換装置としての鏡と言語。主体(前)が自分の顔(後)と名を獲得することは幾何学的には4次元世界での転倒の事件なのである。
この転倒は空間的に言えば3次元的なマクロ方向とミクロ方向の反転をも合わせ持っている。嘘だと思うならば右手に手袋をはめて鏡に映してみるといい。鏡の中ではその右手は左手そっくりに見えていることだろう。当然のことながら、そこでは手袋も左手用にすり替わっている。経験上誰でも知っていることだが、右手用の手袋を左手にフィットさせるためには手袋を裏返すしかない。手袋の界面の裏返り。それは3次元の内部性と外部性の反転のことにほかならない。鏡映変換にはこのように人間の身体における右と左という対峙性に4次元の相対的な反転関係が反映されていることが暗示されている。両者を3次元空間上で等化する(対称性を持つようにする)ことは不可能である。
全面が「後」に覆われてしまったこの世界に「前」を再び呼び戻すこと。そして、わたしとあなたとの鏡映変換を実行可能なものにさせること。これがヌース的アセンションの入口である。分かりにくい表現かもしれないが、それは言うなれば「死者の世界を地上に降臨させること」に等しい。死とは自分の顔や「後」が消えることだと考えてみよう。鏡像世界としての時空概念、そしてその核となっている自我が消え失せたときに自我を見つめていた本当の主体としての世界が露になることだろう。。そこには文字通り人間(鏡像)はひとりもいない。ヌースのいうヘッドレスボディとはこうした無人の大地に立ち上がる「蘇る死者たち」の身体のことでもある。
死とは位置の反転のことです。
死とは人間の内面の意識が崩壊することです。(シリウスファイル)
12月 9 2006
消えた「前」を探せ!! 3
消失した「前」の世界の話を続けよう。ここではその幾何学的構造についてメモ代わりに書いておく。
「前」はどこへ消えたのか?………肉体の周囲に生まれた「後」の回転により生じている時空概念を消し去ると、「前」にはむき出しのリアルが顔を出す。このリアルにおいては自分が客体的な「点」であるなどといった認識は全くない。ヘッドレスだ。それはあるがまま、見えるがままのものである。あるがまま見えるがままの「前」。その「前」を回転させてみよう。「前」がグルグルと回転すれば、それはそのまま天球面を形成するのが分かる(半分は地面になっているはずだがこのことの意味はいずれ触れる)。この天球面はリアルの中に立ち現れている何らかの対象(0点)から見れば∞となっている。つまり、「後」の回転によって生まれていた空間の広がりとは、元来は∞だった主体の位置が他者の眼差しによって0*点に落とし込まれていたことによって生まれていたものであったと考えるといい。そして、0*点として落とされていた偽りの主体の周囲に∞ではなく∞*へと広がる空間が想像的なものとして概念化されていた。そういうストーリーである。
さて、リアルの中に現れたこの0点と∞点だが、回転のさせ方によっては全く区別がつかなくなることが分かる。空間上にある一点を想定し、その点を中心にその点が絶えず見えるように回ってみるのだ。それは0点そのものを中心に天球面を回転させることと同意だ。そのとき、0点と0点の背後方向にあると思われる無限方向はピタッと重なり合って一点で同一視されてしまう。だから当然、天球面上の点は、回転によってこの0点とすべて一致してしまうことが予想される。これはどういうことか。つまり、前においては0点と∞点は等化されているのである。何度も言うように、このリアル認識が形作られているところは時空上ではない。それは敢えていうならば、時空上の一点と見なされるわたしの位置0*点の中に張り付いた余分な次元である。この次元を物理学にならって内部空間と呼んでみたい。この内部空間の形は0点を他者の目においた場合、次のような経路を辿りながら、3次元球面を形成する(上図参照)。
0点としての他者の目→その周囲に広がって行く3次元空間(球面)→そして天球面としての∞点。ここは他者にとっては0*点と見えている位置である。0*点としての主体の目→他者から見えるその周囲に広がって行く3次元空間(球面)→そして天球面としての∞*点。これはわたしから見た0点である。これらの過程で、3次元球面が作られる。
さて、以上のような構造を次元を一つ落として図にすると左上に挙げたような図になる。後ろの回転によって広がっている空間は時空=ミンコフスキー空間なので超双曲面として表される。原点は0*点だ。しかし、前の空間ではその0*点は∞点に置き換わり、そこから他者の0点へと進み、そこで他者の見る∞*点へと変わり、同じく他者の見る0*点へと変わる。しかし、そこで再び∞点に接続し………。といった具合に3次元球面がくっつくことになる。
そして、重要なことはこの3次元球面は時空上においては点の内部構造のようなものとして見えてしまうということだ。なぜなら、さっき説明したように、この空間は点の中でほとんど同一視されてしまう世界だからである。察しのいい方はこの3次元球面の回転が電子のアップスピンとダウンスピンを決定づけている空間であることに気づかれているかもしれない。点の中に貼付けられたこの自転する三次元球面こそ双子の電子なのである。
さて、最初の問いに戻ろう。「前」はどこに消えたのか?………答えは一つしかない。「電子となっている」である。そして、そこは死後の世界へのゲートなのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3