12月 12 2006
4次元回転群SO(4) その1
観測者の真実の位置を考慮して空間を見直すこと。これが3次元意識に捕われた人間の空間概念をトランスフォーマー型ゲシュタルトへと持って行くための最も適切な方法だ。前回も書いたように、人間の内面の意識においては観測位置は0*点として想像されている。しかし、外面の意識においてはそこは∞点である。
∞点にいる自分を決して無限に遠くにいる物質的存在のようなものと考えてはいけない。人間の内面の意識は必ず自分を0*点と置いているので、普通に考えてしまうと、無限に遠い位置とは∞点ではなく、大概の場合、∞*点となってしまう。それはいうまでもなく他者側から見えている無限遠点である。ここでは、わたしに見えている無限遠とは遠いとか近いとかいった距離概念ではなく、視野空間(知覚球面)そのものの在り方という考え方をしてほしい。何度も言うようだが、それがヘッドレスに変身した者の感覚だ。
さて、このヌース的ロジックから言えば、観測者の位置であることの絶対条件として、3次元世界上で見た場合0=∞*と0*=∞という関係が成り立っている必要があることが分かる。前者がわたしの想像的位置と現実的位置、後者が他者のそれである。ということは、観測者同士を結んだ線は必ず3次元球面の直径を形成しているということになる。つまり、観測者同士を結んだ線分は4次元の線分なのである。そして、その位置を互いに想像的なものと見てしまったとき、世界は超双曲面として現れ、ミンコフスキー空間、つまり時空を形成することになる。しかし、上に挙げた0=∞*と0*=∞というキアスムが見え出せば、世界は4次元時空ではなく4次元空間として再構成されることになる。この再構成された場所はもはや時空と呼べる場所ではない。ヌース的次元移動の本質がここにある。4次元時空から4次元空間(虚時間宇宙と言ってもいい)への移動である。
4次元空間が見えてくると「モノ」が特別の意味合いを帯びて浮き上がってくる。いや、もっと過激な言い方も可能だ。ここに来て僕らはやっとモノが見えるようになると言わなくてはいけない。時空上に実はモノなど存在していなかったのだ。なぜならば、時空上に想定された自分の位置自体が想像的なものだったわけであるから、そうした想像的な位置からモノが見えるはずはないではないか。何度も言うように実際に見えている世界とは人間の外面である。人間の知性はその外面に内面の意識の物差しを当てて、外界を概念化しているにすぎなかったのだ。4次元空間に見えるモノこそが真の実在としてのモノである。そして、すでに書いたように、このモノは客体というよりはむしろ主体の性格を持ったものである。人間とはモノがモノを見たような気になるための媒介のようなものなのだ。媒介の時代はもうまもなく終わる。
12月 13 2006
4次元回転群SO(4) その2
4次元空間上での「モノ」が持つ意味。それは端的に言えば「前」の統一として現れる。「前」の統一とは、言い換えれば、4次元空間上に浮かぶ4次元球体の中心点という意味である。観測者としての自他が向かい合って、その間にモノが存在している様子を描像してみよう。そのときのモノは背景を伴って「わたしの前」と「あなたの前」を合わせ持つ意味を持っているのが分かる。より正確に言えば、モノは彼の前も、彼女の前も、観測者全員の「前」の集合によって形成されるということだ。この「前」の一致が幾何学的にどのような構造を持つか、前回挙げた図を用いてチェックしてみることにしよう。
この図は4次元空間上に浮かぶ3次元球面が4次元方向を軸として自転している様子を次元を一つ落として表示したものである。3次元空間上の(0*,∞)の位置が一人の観測者の位置を意味するものだが、このような位置は対極点となる(0,∞*)の位置がなければ措定することができない。なぜなら、自分が見つめる他者が0点にいるということの認知や、他者によって自分が0*点として見つめられているという自覚がなければ、観測者は自分の位置を0*点と想像することはできないからだ。その意味で、自己を構成する最もベーシックとなる場はこの4次元球体の直径部分の線に依拠していることが分かるはずだ。観測者自身の自転運動は観測者から広がる空間のx-y-z軸をすべて等化するので、この球面の自転運動そのものがその3次元回転群SO(3)を意味することになる。ただし、自己側から見た球面と他者側から見た球面とでは、方向がそれぞれ逆なので、正確にはSO(3)の二重被覆になっていると考えられる。そして、この回転軸は自己においては身体における「前」という方向性の中に第四の次元軸として集約されているはずだ。つまり、グルグルと回ってどちらを向こうがそれは「前」に変わりはないし、また、不動の「前」に次々とx,y,z方向が現れてくるものと考えてもいい。
さて、観測者である「わたし」はx,y,z,3軸の自転が可能であるとともに、また3軸方向の並進も可能である。この並進方向が3次元球面上でどのように表されるのか考えてみよう。並進としての3方向は(0*,∞)点から(0,∞*)点に向けて放たれているx-y-z方向(-方向も含む)の各円環として表示されていると思えばいい。つまり、3次元球面上でx,y,zという三つの円環がそれぞれ独自に回転する機構があり、この回転の組み合わせが観測者の3次元上での位置座標を決定するように解釈するわけだ。それに加えて、さっきも言ったように、それら三つの円環を相互に入れ替え可能にするような回転、つまり観測者の周囲の空間の回転が4次元方向を軸として起こっている。そう見ることによって、観測者の並進と自転という運動の自由度によってもたらされる前のすべてが、この4次元球体の一本の回転軸上に集約されてくるのが分かるだろう。
さて、どうしてこのようなややこしい対応関係を持たせる必要があるのか——それは、4次元空間上では主体である「わたし」は微動だにしないということをはっきりさせたかったからである。いや、逆に言えば、微動だにしていないからこそ、一つの主体というアイデンティーが4次元空間上の一座標に生まれてくる要因になっているとも言える。もっと平易な言い方をすれば、3次元空間内をどのように動き回っても変わらないもの。それが主体を空間的に規定するための条件の一つだということだ。となれば、必然的に次のような帰結がわき上がってはこないだろうか。つまり、世界に存在している他者と呼ばれる「無数の自己」とは、この3次元球面上で別の回転軸を持っている者たちのことではないのだろうか、と。つまり、他者を規定している空間は4次元における方向性がそれぞれ全く別の方向を向いているということだ。この様子を群として示すならば、これは4次元方向を持つ回転軸自体が3次元球面の位相に沿って回転を起こすということになるので、その様子を式で表すと、
SO(3)×S^3
となる。これは数学的にはSO(4)という4次元の回転群に他ならない。つまり、4次元空間における回転軸の回転とは、自己から別の自己へと視座を遷移させていくことを意味しており、その遷移の軌跡はS^3を構成しているということなのだ。もちろん、この運動は通常の知覚としては起こり得るものではないだろう。リモートビューイングの理論的構造と解釈するのも面白いが、今は無難に、意識の中で起こっている「想像力」の役割の範疇と考えるべきだろう。あそこにいるアイツから見たら、ここにあるモノはどう見えているのだろうか、という意識のまさぐり。このまさぐりがこそが、おそらくSO(4)の実質的な意味なのだ。そして、「モノ」という概念がこのSO(4)回転の対称性によって支えられているということは言うまでもない。「モノ」は多数の「前」の一致するところにしか現れようがないからだ。そして、この一致を意識に判断させている力とはSO(4)対称性の産物である。それは言い換えれば自他が等化された位置のことでもある。ヌースはこうした位置のことを「精神」と呼ぶ。(ちなみに、このSO(4)が時空概念上に現れたものがSO(1.3)=ローレンツ変換となる)
ここでドゥルーズの言葉を思い出す。
他者はわたしの知覚野の中に現れる客体ではなく、わたしを知覚する別の主体でもないのだ。他者とは何よりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能しなくなる様な、知覚野の構造そのものなのである。(ドゥルーズ『原子と分身』p.26 )
モノという概念は一体どこからもたらされてくるのか。——それは自己と他者の眼差しの綜合からである。そして、ヌース理論は、このSO(4)の回転対称性に始まる空間の重層構造にほんとうの原子世界への進入路があることを詳細に示していくことになるだろう。原子とは物質構造ではなく高次元知性によって構築されている概念の構造なのである。そして言うまでもなく、こうした概念構造は「倫理的な力」と呼び変えても何の支障もない。君は原子に向かっているか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ドゥルーズ