12月 19 2006
原子の基礎
認識にモノ概念が成立するための空間構造を幾何学的にもう少しはっきりさせておこう。
世界には無数のモノがある。今、わたしの周囲には灰皿や本やPCや外の木々や電信柱などが散在している。こうしたモノの多数性は前回示した4次元球体の構造の中でどのように対応させればよいのか——この対応を作るためには、上図のように4次元球体の内部に二つの内接する3次元球面θ、θ*をセットするとうまくいく。これら二つの3次元球面はそれぞれが自己と他者に見えているモノからx,y,z方向に広がっている3次元空間を球面状に丸めたものである。球面θでは∞側が一点で同一視され、球面θ*では∞*側が同じく一点で同一視されている。これらは言うまでもなく、自己と他者それぞれにおける主体としての位置だ。モノの3次元の並進方向は、この球面θ、θ*上のそれぞれの3つの円環の回転と考えるといい。自他がモノの並進方向を意識するとき、球面θとθ*上の円環は同期した鏡像回転を起こしている。SO(3)とSO(3)*で表されたこの二つの3次元球面の4次元方向を軸とする自転はモノから広がるx,y,z軸のすべてを観測者の「前」が等化している状態を意味する。つまり、観測者がモノの周囲をグルグルと周ったときに見える、モノの中心点とその背後方向に位置する無限遠の天球面を同一視させる運動を意味しているということだ。以上のような対応を考えれば、3次元空間上に存在するすべてのモノ(位置)を、このθとθ*の接点の位置Pに対応させることが可能となる。
以上の考察から、意識がモノ概念を形作るためには少なくともSO(4)対称性という条件が必要であることが分かるだろう。ただし、このときに概念化されるモノとは普通にいう客体としてのモノのことではないことに注意しよう。何度も言うようだが、SO(4)対称性は人間の外面に形作られるものなので、これは客体ではなく、集合主体としての役目を持っている。普通にいうところの客観的なモノとは人間の内面認識におけるモノのことであり、それはSO(4)ではなく、おそらくSO(1.3)で表されるローレンツ変換対称性として解釈されるのではないかと思う。
SO(4)対称性と言っても多くの人はピンとこないと思うので、これをSO(3)×S^3という形に書き直してその物理的意味を考えてみる。3次元球面S^3は数学的には2次元複素ユニタリー群SU(2)と同相とされる。これは複素2次元ベクトル空間上での回転群のことだ。3次元球面S^3の双方向の自転によって生じている軸を電子のアップスピンとダウンスピンとすると、SO(4)においては、この両スピンがさらにS^3=SU(2)をなぞるように回転しているというイメージが生まれてくる。これは前回も言ったように一つのモノに対する無数の他者の眼差しに相当する。つまり、無数の眼差しの一点への集中とは、特定の自己のアイデンティーを決定している電子のスピンが、モノから広がる3次元空間上の様々な位置に配位されている様子と解釈するわけだ。このようにスピンがさらに回転しているような空間は物理学ではアイソスピン空間と呼ばれる。つまり、電子のスピンは3次元球面S^3の自転軸として出現しているのだが、そういった自転軸をさらにS^3=SU(2)に沿って回転させ、それら3方向の回転をさらに一つの方向に統合しているような上位の回転軸を想像すればいい。言うなればスピンの上位にあるメタスピンのようなものだ。その軸の双方向がアイソスピンである。物理学ではアイソスピン-1/2が陽子で、+1/2が中性子とされる。
これらの文脈から陽子と中性子の実体とは何かが描像できる。一言で言えば、それは自他における「前」の総体と「後」の総体の関係だ。これはヌース理論の文脈では集合主体の原器と集合客体の原器を意味する。そして、これら両者は実のところ客観的なモノ概念と時空全体の関係となって現れてくる。つまりこういうことだ——目の前に幾ばくかのかさばりを持ったモノがある。その周囲に空間の広がりとしての時空がある。そして、それを見ている「わたし」がいる。それらをすべて概念として解釈すると、その概念のカタチがそれぞれ陽子、中性子、電子に対応していることになる。重水素を作る材料がこれで揃ったというわけだ。
12月 20 2006
モノに潜む知性
実にややこしい話をして申し訳なく思っている。こんな話をしているのには実は訳がある。それはモノとは僕たちの眼差しが一つになるところにしか生まれ得ないということを言いたかったからだ。ヌースがいつも「物質は倫理的な力によって創造された」と言ってるのはその意味だと思ってほしい。
通常の実在概念では、人間がいなくてもモノや光があると考える。モノは人間が現れる前から無条件に「そこ」にあって、モノに当たった光がたまたま人間という生物の網膜組織を刺激し、そこに視像が結ばれるという何とも平坦な説明の様式。こうした説明はすべて時空上での出来事の羅列にすぎないことが分かるだろう。これは、例によって、世界を「後」の回転によって生まれている空間上に存在しているものと思い込んでいる物質知性の物の見方だ。現象学が明らかにしているように、こうした非人称的な場所に「生きられる空間」は存在してはいない。生きられる空間、生きられる時間が存在するのは1人称的空間としての「前」の世界である。そして、その「前」は時空上では皮肉なことに点の内部に隠蔽された場所としてしか表すことができない。その隠蔽された「前」に始まる「前後」や「左右」や「上下」という身体固有の空間を現代科学は想像的自我の温床となる「後」のみの空間に閉じ込めて、小難しく内部空間と呼んでいるだけのことなのだ。この「後」の空間の呪縛から解かれれば、僕らの知性はモノそのものの中に内側から入っていくことができる。これがヌース理論が主張するヌース(創造的知性)の発振の有り様である。
まだまだ粗雑な説明であることは百も承知だが、君にも世界のからくりが少しは見えてきたのではないだろうか。素粒子とは僕らの実存のカタチが組織化されている場のことである。それを構造主義者風に無意識構造と呼んでも構わない。ここにおいて、モノ概念は陽子に、時空概念は中性子に、そして、主体概念は電子に、自我概念はニュートリノに変わる。そして、これらは自他(対化)の関係においてすべて双子として存在させられることになる。そして、何よりも重要なことは、モノがこうした素粒子によってできているように見えている、という事実である。
モノが目の前にある、ということ。それは自他という関係を超克した超越論的な知性の力が存在するということを意味する。モノがあるから僕らの眼差しが「そこ」で統一されるのではなく、眼差しの統一があるからこそ、「そこ」でモノが作り出されていると考えなければならない。その意味で眼差しの統一とはモノそのものの生成空間への侵入口となっていると言える。人間が間主観的な態度や認識の中に生きる価値を見い出すのは、その方向性こそが宇宙の生成力にダイレクトに関わっているからなのだ。国家主義や人間主義、生命主義的な謂れの不確かな「道徳」として善を語るのではなく、存在そのものの「倫理」として善を語ること。ヌースはこのような善のみを善悪の彼岸と呼びたい。
自他の意識の統一としての物質の始まり。そのイメージを持ってモノたちの姿をまじまじと眺めてみるといい。眼差しの統一の世界に広がる空間には想像を絶するような奥行きがあることが分かるはずだ。自然界には水素に始まってウランまで92段階の元素が存在している。それらの元素を形作っている概念というものに想いを馳せてみるのだ。その概念を形成した知性が僕らが「愛」と呼ぶものの彼方に確実に存在している。僕ら人間がこれから進むべき道は、その知性へと至る道だ。
モノとは君と僕の眼差しが一つになるところにしか生まれない——再度、その眼差しを持って地球=大地を眺めてみるといい。地球は地球上に生きるすべての人間の眼差しが否応無しに一点で統一されている唯一の場所だ。世界中の誰もが地球を見つめるとき、その眼差しは地球の重心で一致する。物質的には地球の中心部には鉄があり、表面近くの地殻部にはケイ素やアルミニウムがあり、界面には水があり、それを包むように大気圏には窒素と酸素の皮膜がある。こうした地球の姿を現代科学は宇宙空間を漂うチリが寄り集まってできた土塊ぐらいにしか見ていない。馬鹿げているとは思わないか。地球には眼差しの統一に始まる創造空間内部の生成秩序がそれこそ年輪のように覆っている。地球という球体の中で躍動する幾多の精霊たちの姿が見えて来たとき、月の正体も自然に分かるだろう。そして、そのとき、僕らの意識はほんとうの太陽系世界へと開かれる。夢見るヌースの上昇の旅がここに始まるのだ。乞うご期待!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 7 • Tags: ニュートリノ, 素粒子