3月 25 2024
「自己と他者の間には13,000年のタイムラグある」ということについて
以前のサロン内容「シリウスファイル談義#14」では時間がテーマだったけど、みんなが一番「?」となったのは、自己と他者の間には13,000年のタイムラグがあるという話だったのではないか。
ヌーソロジーで自己と他者と言ってるのは、もちろん、存在論的意味合いにおいての自己と他者という意味で、決して経験的な自己と他者のことを言ってるわけじゃない。人間の世界がこうして自己と他者という二つの意識存在に分離して現前しているのには、存在論的に深ーい、深ーい理由があるということ。そのことについて言っている。
ヌーソロジーではこのような自他の分離のことを「対化」と呼んでいる。この「対化」は二元化の本質のような意味で、空間と時間、電場と磁場といった物理現象は言うに及ばず、虚軸と実軸といった数学的概念、さらには、精神と物質といった哲学的な区分に至るまで、それら二元化の本質が自己と他者と呼ばれている二元性の反映として現象化しているということを意味している。
つまり、宇宙というのは、自己存在と他者存在の関係が最も深いベースにあって、律動しているということだ。
こうした存在論的な自己-他者関係を意味する「対化」は、神秘学的には存在の母と父と言ってもよいもののように思う。例えば、ルーリア・カバラではこの「対化」はアッバーとインマー(コクマーとビナーでもよい)として、天上の神の家族の物語の体裁を取っている表現されている。
その物語の中では、彼らは存在における配偶者同士であるにも関わらず、じかに抱擁することができなくなり互いに背を向けていると言われている。
この距離が、人間の時間感覚にとっては13,000年に当るということをOCOT情報は伝えてきている。つまり、存在論的自己が、存在論的他者と再び邂逅を果たすまでの時間だ。これはヌーソロジーの文法ではヒトの思形であるΩ9がΩ10を等化してΩ11を形成するまでの時間的距離に相当している。
OCOTが「次元の交替化」と呼んでいるものも、この距離を踏破する精神の歩みのことである。
⚫︎オカルトに聞こえるかもしれないが・・・
前のポスト、オカルトの話を出したので、もろオカルトに聞こえるかもしれない。でも、よーく考えてほしい。
自己と他者は同じ人間であるにも関わらず、なぜ、全く同じ形式で現前していないのだろうか。
私に見える場所を他者は決して見ることができず、そこでの私の奥行きは、他者にとっては、常に幅にしか見えない。
私が知覚するものは、他者には言語でしか把握することができない。見える世界と見えない世界が互いにひっくり返っている。
「死ぬのはいつも他人」というように、私には他者の死は経験できるが、自分の死は経験できない。
この距離、他者との間にあるこの隔絶した距離の由来は一体なんなのか。
しかし、それでも尚、私たちはそれを隔絶とは見做さず、互いに相手に向かって一歩一歩、歩み寄ろうとする。あたかも、そこに生きることの意味があるかのように。
人間の進化というものがあるのなら、その距離の踏破ということ以外、何があろう?
視野を広げよう。存在は精神的なものである。人間のあらゆる営みの裏には、私たちが想像もしていないような、精神の存在史的前進というものが存在している。
そのような場所にそろそろ出てもいい頃ではないか。
3月 27 2024
空間の革命を開始しよう!!
ヌーソロジーが日々「X」上で紹介している概念は、物質宇宙と私たち自身の意識の関係を再考するためのものです。
ヌーソロジーの考え方では、素粒子として観測されている現象は、実際には主観空間や自他の主観空間相互の関係性が、客観空間へと投影されたものであるという解釈が可能になります。
この視点は宇宙の基本的な構造が、実際には私たちの内的意識のプロセスから生じているという見方を提供してきます。
つまり、宇宙のミクロスケールで観測される素粒子は、我々の主観空間の構造が外部世界に映し出された投影なのであり、素粒子の存在理由は、自己存在と直結しているということです。
伝統的な物理学では、素粒子は物質の最小単位として、また物理的な力を媒介する交換粒子として考えられています。しかし、ヌーソロジーの視点では、素粒子の存在そのものが、自己の精神の基本的な作用によって形作られていると考えることができます。
このような考え方は、精神と物質を直接リンクさせてきます。物理的な現象が単に存在しているのではありません。私たちの精神的存在そのものが量子となって、この物質宇宙の全体をその始源において支えているのです。
こうした空間を奪回しましょう。それが自己存在の本来性なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子