12月 28 2024
「0」の発見がもたらしたもの
AdS/CFT対応について考えているうちに、古代ギリシア人たちの数直線に対する独特な見方を思い出した。
現代では、数直線の中心に「0」を置き、右側に+1、+2、+3…と続け、左側には-1、-2、-3・・・と負の数を取る。しかし、古代ギリシア人たちはこれとは異なる捉え方をしていた。彼らの数直線の原点は「1」だったのだ。
彼らは1を中心に、右側に+1、+2、+3…と自然数を置き、左側には1、1/2、1/3…と逆数を取っていった。それも単に「間隔が縮んでいく」わけではなく、左と右が指数的な対称性を持つ形で広がっていたのだ。このような「掛け算で1を中心とした世界観」は、私たちが慣れ親しんだ「足して0を中心とする」見方とは根本的に異なる。
この見方は、ミクロとマクロが1を中心として対称的に繋がっていることを暗示している。∞ループのモデル図も、まさにそのことを物語っているように見える。
一方で、「0」の発見が私たちに与えた影響も考えずにはいられない。0を中心に据えた世界観は、人間をフィシス(自然)から切り離し、数直線を「分断と無限」に向かわせたのではないだろうか。
0は確かに数学的には重要な概念だが、同時に私たちを自然との共鳴から引き離し、線的で二元的な見方を強調したのかもしれない。
「1」を中心に据えた古代ギリシア的な数直線は、私たちに忘れ去られた統合の感覚を思い出させる。それは、人間が自然と一体となり、ミクロとマクロを対称的に捉える視点だ。
今一度、私たちは「0」によって生じた分断を超え、「1」を中心に据えた統合的な世界観を取り戻すべきではないか。
12月 29 2024
「世界内部空間」としての「君と君の君」の世界
「私」と名指されたものは、外側から名付けられたもの。
つまり、他者視点から見た自己のことだね。
自己視点から見ると「私」なんてものは存在しておらず、そこには世界しかない。
それか本当の主体。
非人称の主体のことだね。
「君」とか「御前」とか呼んでもいいと思うけど。
CFT空間というのは、こうした「君」が此岸と彼岸から二人現れてくる空間のことだよ。
ヌーソロジーが「君と君の君」と呼んでいる世界。
いいよね。
そこには、私がいない・・・。
こういう世界を作っていかないと——
詩人リルケは、このような世界のことを「世界内部空間無と呼んだ。
でも、未だ世界が外部で満ちているということは、文学や哲学の力で、そこに入って行くことはまだ難しかったということだろう。
でも、今は科学が発達してきて、量子力学までたどり着いた。
CFTの世界だ。
だからこそ、どんな人でも、この世界内部空間へと入っていける切符を手に入れたということ。
もっとも、当の科学者たちが、そのことに気づいていなのだけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: CFT, 量子力学