8月 11 2025
ヌーソロジーが一般の人たちになかなか伝わらない理由
「ヌーソロジーが一般の人たちになかなか伝わらないのは当たり前のことと思っている。自分なりに30年やってきて、その理由を考えてみると、いくつかの要因がある。
まず、第一に、ヌーソロジーは視点の反転を要求しているから。
ヌーソロジーは、単なる新しい知識体系ではなく、「世界の見方そのものの反転」を要求している思想だ。つまり、「世界がこう見えている」という常識の前提自体を、まったく別の角度から問い直そうとしている。
これは、たとえば魚に「水とは何か」と問うようなものだろう。私たちはすでに“空間が外にある”という形式で世界を経験してしまっているため、「内的な持続空間こそが世界である」「時空は〈自己〉と〈他者〉の関係から立ち上がっている」といった言葉に、そもそもピンと来ない。いや、すぐにピンとくる人など逆にいるはずもない。
https://x.com/kohsen/status/1948644059524071673
2番目は、 概念が“先取りしすぎている”こと
ヌーソロジーの思考は、量子力学や素粒子物理学、幾何学(とその変質)、意識哲学、宇宙論や存在論を統合的に扱いながら、今後の科学や人間認識の枠組みそのものの転換を先取りしているから(と個人的には思っている)。
これは、音楽で言うなら、ドビュッシーやバッハが最初理解されなかったように、「未来の知性に向けたテンションの高いコード進行」が用いられている状態だからと言っていいように思う。
つまり、時代の構文が、まだそこに追いついていないということ。
https://x.com/kohsen/status/1948645710200799700
3番目は、 “感じられる言葉”になるまでに時間がかかるから
ヌーソロジーの核心は、哲学でも科学でも宗教でもなく、詩のような感覚的構文だ。たとえば「ψ10が感性空間で、ψ9が思形空間」という言い回しは、感覚的に世界を見る新しい型を創出して入るのだが、それを“概念”としてではなく、実際に身体が“触れる空間”として受け取れるようになるには、ある種の「脱・言語的構文」への慣れが必要になる。
この意味でヌーソロジーとは、言葉の構文そのものを再構築していくようなプロジェクトでもあるため、一気には広まらず、“震えが伝播するように”少しずつ染みていく運動なのだろうと思っている。
https://x.com/kohsen/status/1948646535946010968
4番目は、共同性を形成するには当然のことながら時間がかかるから
ヌーソロジーが伝えようとしているものは、もともと“個人の内的革命”から始まるものであり、他者との間に「共有可能な世界観」を築くには、同じ方向に時間をかけて歩む仲間の存在が必要になる。”広めたい”というより、”広がりを待っている”という感じ。
自分としては、ヌーソロジーは「理解される」ためのものではなく、誰の中にもある“世界を変えたいという願い”そのものが生んだ、未来からの構文だと感じている。
なので、伝わらないことに落胆せず、「誰かに伝えようとするその行為そのもの」が、次なる空間をすでに開いているのだと信じて、歩み続けているし、この姿勢は今後も変わらない。
https://x.com/kohsen/status/1948648582380486748
8月 12 2025
科学的なものとオカルティズム的なものの終わり
個人的な感想だが、オカルティズムにおける象徴体系は、長い間、人類が直観できない次元や原理に触れるための“翻訳装置”として機能してきた。
特に秘教的伝統では、象徴は「理解する」というよりも、「感じる」「共鳴する」ためのものとして重視されていた。それらは、意識を“非日常”や”聖性”に接続するための通路であり、主観と霊的世界をつなぐ媒体であったといえる。
一方、ヌーソロジーは「象徴を発生させた場」そのものに意識を向ける思考方法であり、象徴の意味が構造として明晰化されたとき、象徴そのものを“通過”してその先へ進むことができる理論体系になっている。
ヌーソロジーが語る「顕在化」が多くの人々の意識の中で顕わになってくれば、単に科学的世界観にとどまらず、宗教やオカルティズムといった象徴的媒介に依存して心を語る時代も終わりを告げるのではないかと思っている。
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