3月 1 2019
四次元の花嫁
僕らは常に世界を対象として見るだけで、対象化している自分を世界の中に置こうとしない。
そうした眼差しは硬い。それが理性の眼差しだ。
眼差しはほんとは世界に溶け込んでいる。
世界について思いを馳せるときは自分を特権化せず、世界に溶け込んだ眼差しの中で世界となって考えないといけない。
世界を対象として見なすなら、僕ら一人一人は世界から疎外された孤独な独身者となってしまう。
そういう場所では、独身者は妄想と欲望の中に生きるしかない。
何を叫んでも、たとえ愛の歌を美しく歌い上げたとしても、その声は誰にも届かない。
そのような場所には運命の人などいないのだ。
「見る」という視線が対象化から逃れ、柔らかな眼差しとなって対象世界に溶け込んでいくとき、独身者は花嫁を見出す。
性愛の本来とはそういうものだろう。
そこで、一瞬は永遠と出会い、ここはかしこと出会い、外部と内部の境界が消え去っていく。
―花嫁は4次元にいると言ったのはデュシャンだったか。
少年ナルシスの傍で、今日も何も喋らずそっと寄り添うエコー。
神話ではナルシスはエコーの想いに気づくことなく命を絶ったけど、君の中では、ナルシスはエコーの想いに気づくことができているだろうか。
世界を対象化して紡ぎ出される言葉はもうほどほどでいいのではないか。
そんな言葉が人間の歴史の中でうずたかく積もっては、花嫁の姿を完全に見えなくさせている。
花嫁は最初から目の前にいるんだよ。
そして、いつも、君の眼差しに触れられることを待っている。
※下写真
《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》
M・デュシャン
4月 28 2021
来たれ、若者!!
2013年にヌーソロジーの活動を再開して、いつも感じてきたことなのだが、ヌースにはなぜか若い人が集まってこない。
これは、なぜよ? という問題。
もちろん、提唱者自身が老境に差し掛かっているので、ジジイが言ってることなど聞きたくもねぇ~、という若者の心理も十分に理解できるのだが、僕の個人的感覚からすれば、ヌーソロジーのコンテンツであれば、若い連中がもっと反応しても不思議はないのにねぇ~と、つい思ってしまうのだ。
もちろん、年配の人たちが集まってくれるのも嬉しいし、励みにもなるのだけど、なんせ、ヌーソロジーはポストヒューマンの世界観を提唱しているのだから、若者が少ないこの現状には何とも淋しさを感じてしまうわけだね。
ヌースレクチャーのオープニングビデオを始めとしてヌーソロジーの露出を極力POPにしているのも、若者にも目を向けて欲しいからなんだけど、正直言って今は完全に空振りしている状態が続いている(笑)
●今の若者は権威好き?
で、原因はなんなのだろう?と考えてみると、いろいろ出てくる。
まずは、何と言っても、僕自身に今の若者気質が全く掴めていないところ。
2000年代の最初の10年間ほど、ほとんど世間的な情報と接触を絶った時期があった。
後々知ったことだが、その間に、日本社会にはとてもない構造変動が起こっていたようで、それに伴い若者たちの精神構造も大きく変化した(らしい)。正直、そういった変化にまったく気づいていなかった。
もちろん、「今の若者は」などと言って、若い人たちを一括りにして語るつもりは毛頭ないが、傾向として2010年代以降、若い世代がかなり権威主義的に偏り、保守化してきたというのは空気感からも分かる。
確かに、ネットなど見ていても、サイエンスのような知的権威を好む連中が多く、一般的には、オカルトやスピリチュアルはトンデモとして嫌悪されている。
ヌーソロジーは巷のオカルトやスピリチュアルとはかなり質が違うものなのだが、チャネリングが出自であることは確かなので、コンテンツに実際にアクセスしない限り、側(はた)から見るだけでは大した差はない。
まぁ、それで敬遠されている部分は多々あるだろう。
実際、昔、パンダ光線(言っちゃてる半田広宣の意)などと呼んで、僕のことをネット上で揶揄していた連中も比較的若い世代の連中だった。
しかし、別に1万人集まって欲しいと思っているわけじゃない。
個人的には、数十人でも十分なのだ。
実際のところ、どうだろう?
ヌーソロジーに関心を持って、ずっとウォッチし続けている若者なんて、日本全国探し回ったところで、十人いるかいないかぐらいじゃなかろうか。レクチャーにも20代はほとんど見当たらない。
●Rockは古くてカッコ悪い
ヌーソロジーは、政治批判や社会批判は表立ってしないが、事実上は体制批判の塊のような思考だ。
体制と言っても、ここでいう体制とは、みんなももうよく知っている「人間型ゲシュタルト」のこと。
だから、科学だろうが、宗教であろうが、民主主義だろうが、自由主義であろうが、およそ人間が歴史の中で作り上げた様々なイズムは、ヌーソロジーの観点からすれば、すべてが批判の対象になる。
ニーチェのいう価値転換の実現を目指す思考なのだから当然だ。
だから、ヌーソロジーにとってのかくあるべき批判方法は、「人間ではないもの」の世界があるとすればそれはどんな世界か?、そのオルタナティブを具体的に描き続けていく作業だけが、最大の批判方法となる。
脇目は振らない。
大いなる肯定的精神を持って批判を行うにはこの方法しかないと決意しているからだ。
そして、僕の感覚からすれば、これこそがROCKだ!芸術だ!(笑)
若い感性というものは、当然、新しいのものの到来を望んでいるのだろうから、ヌースほど新しいものはないよ、と思っている僕には、若者たちがこうも反応してこないのが不思議で仕方ないのである。
ただ、今の若者はROCKが好きじゃないという。
ガ~ン。マジか・・・。
●でも、何だかなぁ~という感じ
僕らの世代は権威に抵抗することが若者の特権でもあった。
でも、今の時代はそれがカッコ悪いらしい。
2013年に東京レクチャーを開始したとき、渋谷で山本太郎を口々に罵倒する若者たちを目撃したときのあの衝撃は今でも忘れられない。時代の変化を生々しい皮膚感覚で感じたのも、あの時が最初だった。
山本太郎のようなタイプは、今の一部の若者にとっては生理的に受け付けなくなっているようだ。
それが転じて、デモやるやつ嫌い、アジるやつ嫌い、リベラル嫌い、団塊の世代嫌いetc……という連鎖反応が自動機械さながらに起こる。
まぁ、マスコミに登場する若手の論客を見ていても、F氏しかり、M女史しかり、あたかも世界を知り尽くしたかのように早口で喋る、知識型のクールなキャラが多い。
最近のアニメなんかを見てても、そんなキャラばかりが目立つし、時代は確かに変わったかな、と。
2015年の夏に、国会前などで安全保障関連法の反対を訴え、社会の耳目を集めた学生団体「SEALDs」(シールズ)が出てきたときは、おっ、と思ったものだが、あの時の奥田くん?だったか、今は何をしてるのだろうか?
まぁ、この辺りの若者事情は、春井さんが『奥行きの子供たち』でいろいろと分析しているので、興味がある人はそちらを読んでみるといい。
僕としては、こうした最近の若者たちの趨勢に嫌気がさしている若者もごくわずかながらも絶滅品種として残存しているのではないかと思っていて、そういう気骨のある奴らにヌースの情報を伝えたいと常々、望んでいる。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 2