7月 22 2006
人間の条件
ルネ・マグリットの「人間の条件」という作品だ。この絵は画家が絵を描くことの基本的なスタンスを的確に表した概念画のようなものである。マグリットの作品は、以前、紹介した「複製禁止」を初めとして、空間に潜む亀裂、断裂をあたかも測量士のようにきっちりと図式化して再現するものが多い。この作品もその典型である。
室内から見た外部の風景。室内と外部の間にはあたかも風景を切り取るように窓が穿たれている。この窓枠に合わせるようにして、キャンバスが象られ、そこに、外部の風景が詳細に模写される。キャンバス上に描かれた風景はあくまでも2次元上に配置された形態や色彩だが、窓の外に広がる風景は三次元的奥行きを持つ延長としての世界である。
この作品のタイトルにあるように、こうした空間の配置関係が「人間の条件」であることは、ヌースをご存知の皆さんはすぐに了解してくれるだろう。人間はあたかも内部と外部のように感じるなにがしかの空間感覚を持っている。外部は客観世界と呼ばれ、内部は主観世界と呼ばれる。それらはそれぞれこの作品では室外と室内として描かれている空間のことであり、その境界に設けられた窓は目の役割に等しい。画家は視野そのものをタブローとして、この室内と室外の境界面に起きる出来事を作品にするが、それは、ときに感情、ときに思考という反応を通じて、一つの経験の風景としてモチーフ化されていくわけである。
ヌースがまずヌース的思考の大前提として、空間を内面と外面にカテゴライズするのも、この作品が提示している意図と全く同じだ。感情や思考といった主観的な意識の働きは肉体の内部にあるのではない。ましてや、脳の中でもない。この作品で言えば、この窓の形に描かれた「絵画」そのものの上にある。絵画が精神の表現となり得るのは、精神が絵画的であるからにほかならない。ユークリッド空間よりも射影空間の方がより本質的であるように、絵画は決して三次元の風景を平面で表現したものではなく、絵画的なものの方が延長世界へ射影され、三次元認識として開いているのである。その意味で、本当は、絵画的なものの方が高次の生成物である。
まぁ、こんなことは、絵画論の中では言い古されていることだが、この転倒関係をまずはしっかりと認識する必要がある。ヌースではこの作品におけるキャンバス部分を「人間の外面」と呼び、室外風景の方を「人間の内面」と呼ぶが、いずれにしろ、わたしたちは室内から外部を覗くとき、外面に穿たれた窓を通して、それこそ、身体そのものを裏返しにしていると言える。光の皮膚を突き破り、身体の外部へと出血を続ける魂——君も、明日から、自分の部屋の中から外に出るとき、また、反対に外出先から自分の部屋の中へ戻るとき、そこにある空間の捻れに注意を傾けるといい。おそらく、かすかにだろうが、皮膚の裏返る音が聞こえてくるはずだ。
ライプニッツは「モナドには窓はない」と言ったが、それは当然だろう。モナドそのものが窓なのだ。モナドとは二つの対立する世界の継ぎ目、捻れ目に生まれるものなのだ。目の前にその捻れ目が見えてくれば、君もヌースの世界に足を一歩突っ込んだことになる。
10月 29 2006
「NO DIRECTION, everyday」
福岡天神にあるイムズホールへ「ニブロール」というディレクター集団の公演を観に行く。僕がダンスを観に行くというのはまこともって一大珍事だ。まともに見たダンスの公演と言えば、知人の河村悟氏によるものしかない。舞踏にしろ現代舞踊にしろ、正直言ってよく分からないのだが、このニブロールは、たまたま、新聞の折り込み広告に入ってきたリーフレットのデザインが気になったので、ちょっと目に止まった。裏面にはこんなことが書いてある。
君と見てきたこの世界。
たとえば同じ場所から見てたとして、
君と僕と見えている景色は同じじゃない。
君と過ごしてきた時間。
たとえば、ひと時も離れずにいたとして、
君と僕と、ずっと一緒だったわけじゃない。
世界はひとつ、ではない。
定められた方向。などもない。
この世界はどこまでもバラバラで、
でも、どこかでつながっている。
そんなことを、秘かに期待して。
およよ。ちとヌースっぽい。。こうしたことをテーマにしたダンスパフォーマンスなら、少し見ておく必要があるのかも。ということで、ホールに足を運んでみたのだが。。。暗転したステージに、いきなりディストーションギンギンのギターサウンドをバックにバグパイプ調のフレーズとバーカッションが鳴り響く。蛍光テープで謎めいた記号を貼付けた衣装を身にまとった数名のダンサーたちが、ステージに飛び出してきて、オープニングはかなりいい感じ。。おっ、これはひょっとしていけてるかも。。という期待で1時間余りのパフォーマンスは始まったのだが。。
しかし、そう当たりは巡ってくるものではない。音楽と映像はそれなりにマッチしていてよかった。テクノ、プログレ、トランス、環境音楽、さらには60年代末のフラワームーブメント的なサウンドなど多種多様な音楽がほどよくミックスされていて、結構ドラマチックに仕上がっていた。ところがだ。肝心のダンスが酷い。酷すぎ。いや、これは好みの問題かもしれないので、僕にとっては酷く見えた、と訂正しておこう。何が面白くなかったと言って、振り付けに建築性が全く感じられなかったところだ。解体や脱構築は20世紀で終わりににできないものか。この公演のタイトルが「NO DIRECTION, everyday」だから、構築的なものを期待する方が愚かなのだが、それにしても、苦痛や、抑圧や、苦悩や、飢餓や、修羅の身体表現はもう飽き飽きだ。
現代音楽にしろ、現代舞踊にしろ、僕がゲッとしてしまうのは、この公演のタイトルにもあるように、NO DIRECTIONでありすぎることだ。ヘルプレス、ホープレスな現代人の苦悩を延々と見せつけるものが圧倒的多数。苦悩を延々と垂れ流しすることが錬金術的な「黒の作業」を意識しているならばそれでもいい。しかし、ほとんどは「Paint it all black」で暗黒以外の何もない。希望ナシ。未来ナシ。出口ナシ。はったりでも、ギミックでもいいから、隅に小さなExitを配せといいたくなる。霊性を失った芸術表現はほんとうに無様だと思う。誰か雷鳴轟く一撃を食らわせてくれないものか。。
By kohsen • 08_文化・芸術 • 2 • Tags: 河村悟