6月 11 2005
月の光の幻想
昨夜はうちの奥さんが出演しているコンサートに行ってきた。会場は福岡にあるルーテル教会。主役はUさんという女性の方で、うちの奥さんは友情出演。Uさんは、福岡にあるシンフォニック合唱団というコーラスグループの設立者の方で、ご自身でも歌をたしなまれている。今回のコンサートはミャンマーの留学生たちを応援するためのチャリティーとして開催された。小林秀雄作曲の「落葉松」が出て来たときにはびっくりしたが、全曲とても暖かみのある歌声を聴かせていただいた。さて、いよいよ、うちの奥さんの出番。演目はドビュッシーの「月の光」その他。ドビュッシーは奥さんの十八番である。うちの奥さんはT音大のピアノ科出身だけにピアノの腕前は一級品。わたしも安心して聴くことができた。ただ、わたしの場合、ドビュッシーの曲を聴くと、すぐにあっちの世界に行ってしまうのが悪いクセ。今日も、演奏そっちのけで、ヌース的思考がグルグルと回り出す。あぁぁぁ……turn…me…on。
月の光、それは半ば青みがかった間接光。その光は、見ることがまるで無意識の出来事でもあるかのように事物の輪郭を朧げに浮き立たせる。死者の魂が彼岸に旅立つときに放つのもこの淡い燐光だと言われている。月と死者。死者と月。月の光はあたかも死者の眼差しを再現するかのように、無意識の情景をそっと生者の前に再現する。——昼間あなたが見ているものは物質の光、月の光に照らし出された物質こそが、本当の光、魂の光なの——亡き月の王妃がそっとわたしに語りかける。おっと、それってラヴェルじゃねーのか。。まぁ、細かいことは気にしない気にしない。ヌース的空間の中ではドビュッシーとラヴェルは同類なのだ。
日の光に照らされた物質と月の光に照らされた物質。これらは「光の形而上学」を考えるにあたっては欠かせない二大要素だ。光には二つの種族がある。いわゆる、「闇の中の光」としての光と、「光の中の闇」としての光。この2種族の光を知らずして光を語ることはできない。前者は時空の中を光速度で突っ走る光のことであり、後者は、見ることそのものとしての光を意味する。
さて、プラトンが語った「原初のイデア」のことを思い出してみる。それは見るものと見られるものの接点にある「火の光」のことだった。視覚でも視覚対象でもなく、それらの成立を可能にする「見ることそのもの」としての光。これは、元来、月の光を指すイメージではあるが、洞窟のカベを照らしていた光が光の入射口自身の方向に向けられれば、この燐光はもう影の光ではなく、大いなる逆光として「火の光」の光学を持つことになる。月は役目を終え、本当の太陽が姿を表すのだ。
時空の中を突っ走る光。これは言うなれば古き太陽の使者である。古き太陽は当然のことながらアポロン的なものにかかわり、事物を理性の光で照らし出す。日の光に照らされた物質——科学では、モノを観るということは眼球という視覚装置の中で生理学的に解説され、一方、わたしを観るという事に関しては、あやふやな自我心理学の中で分析されるのが通常となっている。そして、そうした心理はまた脳の産物へと還元され、再解釈の襞を形成していく。科学が生み出すロゴスが不妊症なのは、もう一つの光、つまり、月の光が存在していないからだ。月の光を新しき太陽の光へと変身させること。これがヌースでいう「潜在化」から「顕在化」の意味である。やがて、演目は、わたしの空想に合わせるように、「月の光」から、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」へと変わっていった………。
はっと、われに帰ると、会場は拍手喝采。ありがとう。ありがとう。と、わたしは深々とおじぎをした。あぁぁぁ……turn…me…on。
6月 15 2005
鉄の音楽
久々にロックのアルバムを購入。ナイン・インチ・ネイルズの「With Teeth」というアルバムだ。前に買ったのがレディオヘッドの「Hail To The Theif」というアルバムだったので、実にCD購入は2年ぶりの珍事ということになる。
【1】トレント・レズナーのサウンドはメタリックなギターサウンドやハードコアなビートが売りになっているようだが、サウンドの重量感に対して曲作りの構成はとても繊細で明快だ。アンサンブルを聞けばすぐに分かるが、徹底的に考え抜かれた贅肉抜きの音作りをしている。かつてのプログレの雄、ツェッペリンやクリムゾンやイエスなどは別として、ロックの優れた楽曲というのは、コピーするのはさほど難しくない。つまり、各パートはあまり大したことはやっていないのだ。しかし、ドラム、ベース、ギター、ボーカルというようにそれぞれの音が重なり合ってくると、4倍どころか無限大にそのサウンド世界は広がっていく。これはシンプルでカッコいい音楽の絶対的な要素である。トレント・レズナーの音楽もそこが実にしっかりと押さえられているから素晴らしい。だから、やたらに音色だけ真似てもレズナーサウンドは生まれない。残念ながら。。そこに要求されるのは、リフのセンス、ビートのセンス、そして、歌詞を含めたアンサンブルのセンスなのだ。
【2】技術論的なことはさておいて、彼のサウンドのカッコよさのバックグラウンドには、ブリティシュ・メーンストリームの魂がしっかりと息づいているような気がする。今回のアルバムで言えば、一曲目「All The Love In The World」のピアノの匂いは、まるでWhoの「Who are you 」だし、シングルカットされた「The Hand That Feeds」のイントロのリフは、ほとんどKinksの「You Really Got Me」の乗りだ。WhoやKinksに共通するのは、「不良のダンディズム」である。それは、もちろん、ビートルズやストーンズにもあったものだ。不良と言っても、グリースの匂いをまき散らしながら、キャデラックのオープンカーで通りを突っ走るアメリカン・ロックン・ロールのチンピラたちのことではない。もちろん、こうしたティーンズ・ロックンロールがなければブリティッシュ・ロックも生まれなかったわけだが、60年代後半に向けて花開いたあのアバンギャルドなロックカルチャーは、ロックンロールの精神というよりも、あのケルトの深い森の神秘性が多大な影響を与えている。レズナーはもちろんアメリカ人だが、彼からはミスタードーナツの匂いも、ジェームス・ディーンの匂いもしない。
【3】良質の哲学や思想が常に古代の呪いから解き放たれていないように、良質のロックには常に60年代の呪縛がかかっている。それは、彼がシャロン・テート事件がおきた館をスタジオとして買い取ったことからも十分に想像できる。モダニティが解体を露にしたあの時代、ビートルズが「ヘルター・スケルター」を歌い、チャールズ・マンソンがそれに触発され猟奇殺人を犯す。ビートルズに凄まじい劣等感を抱いていたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン。その彼と親交があったチャールズ・マンソン。彼らの意識がどう絡み合ったかは分からない。ただ言えることは、そこに生きるすべての人名、地名、曲名、事件名といった種々の記号が、まさに乱数表のようなつながりを持ちながら、時代の中のあらゆる出来事が動いているということだ。無関係なものなど一切、存在しない。すべてが一つであるが故に。この出来事の盲目的な増殖、成長はそれこそリゾーム状の組織を形成しながら、日の当たるところにも向かえば、より地中深くへも潜行する。閉鎖した時代の壁の爆破を常に試みるロックという野生の生き物。そして、その生き物の雄叫びを実際の社会的暴力へといとも簡単に転化せてしまう仄暗い狂気。希望へのベクトルは絶えず絶望へのベクトルを生産し、すべてが何も無かったかのようにリセットされる。ナッシング、そう、レズナーがレーベル名に掲げているように、世界はまさにいい意味でも悪い意味でもナッシングなのだ。この二つのナッシングに挟まれて、わたしたちの魂は夥しい血を流す。ひねり潰される心臓。この血を好む生き物がいる。この発狂ギリギリの苦痛を糧とする生き物がいる。そうした生き物と真正面から向かい合うタフさがレズナーの音楽には感じられる。鉄の音楽。赤く錆びれた鉄。灼熱に溶け出す鉄。人体を切り裂く鉄。頭蓋骨をたたき割る鉄。巨大なビル群を支える鉄。そして、何よりも、われわれをいまだに狭苦しい空間に磔ているナインインチネイルズの鉄………。カン、カン、カン、カン……。世界は今だにゴルゴダの丘である。恒星を破裂させる音楽が欲しいのはわたしだけか?。
By kohsen • 07_音楽 • 4