11月 15 2013
リターン・トゥ・インノセンス
奥行きの幅への従属は、差異の同一性への従属に同じ。一方、幅の奥行きへの従属は同一性の差異への従属に同じ。前者が「繰り広げ」の空間であり、後者が「巻き込み」の空間。両者には絶対的な差異がある。前者を物質空間とするなら、後者はエーテル空間(魂の形象化)の空間である。
奥行きが幅に従属して現れるとき、つまり、認識が奥行きに幅を見ているとき、真の奥行きは幅側に潜在化して回り込んでいる。これが自他において重畳化することによって、直線的時間の形式が出現している。
これは差異化した内在性の空間から見れば、時間が左右方向に走っていることを意味する。これが状態ベクトルの時間発展としてのユニタリ変換を促しているのだろう。
時空は先日のコタローさんの言葉を借りるならば「先行的投射(大沢真幸)」によって生じているものであり、あくまでも差異の差異化(ドゥルーズ)によって生まれている結果の世界にすぎない。言語の母胎も「奥行きの重畳=共有」がもたらす一般化させられた視線と深い関係を持っている。
こうした「先行的投射」がその原因に向かおうとするところに差異としての主観が形成されているのだが、原因としての主観から結果としての時空の提供への意識回路はアプリオリに潜在的なものとして活動するだけで、人間の認識には上がってこない。
ここに存在する順行的反復がドゥルーズのいうクロノスである。言葉と知覚はこのクロノスの内部における時間の反復によって何重にも襞化され、「先行的投射」による権力のダイアグラムを巧みに構造化していく。
これらのダイアグラムを解体するためには逆行的反復、つまり、アイオーン(永遠回帰)の到来という奇跡が必要なのだ。それは主観が先行的投射に対して受動的なものではなく、能動的なものへ変身を企てるところにしか起こらない。それがドゥルーズのいう第三の反復の真意なのだろうと思う。
そのような意味で、ヌーソロジーが提示する幅優位の空間認識から奥行き優位の空間認識への移行は、この第三の反復と深く深く関係している。
第三の反復………それは生まれたての幼児へと変身を企てること。そして、そこに芽生えている眼差しを星へとつなぐこと。そして、それらの星々が美しい星座を描くこと。。Return to Innocence!!
3月 18 2014
ミューズたちも舞い降りている
友人の尾崎さんからナターシャ・グジーさんというロシア女性が唱っている「千と千尋の神隠し」の主題曲「いつも何度でも」のビデオを紹介された。歌声も素晴らしいのだけど、曲の歌詞を改めて見て少しびっくり。
こうした純朴な詩は自分の狭隘な趣味から言えば好みじゃないのだけど(笑)、ナターシャさんのルックスも相まってか、古代ギリシアから舞い降りたミューズの歌声に聞こえた。
ゼロになるからだ。それを充たすこと——。
歌は5分30秒あたりからデス。
「いつも何度でも」
作詞/覚 和歌子
作曲/木村 弓
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに みつけられたから
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By kohsen • 07_音楽 • 0 • Tags: ナターシャ・グジー, ミューズ