7月 9 2018
自然と人工
物理学の根底で働く諸力を精神の諸力と同一視していく思考の作業は、ある意味、自然それ自身になるために闘争する作業に近い。その所作を古代ギリシア人たちはフィシスという言葉で理解していた。ハイデガー風にいうなら、隠蔽性を解除するということ。もしくは、世界-建設の出来事。
隠蔽性の解除とは、瞬間の中に永遠の穴を穿つことでもある。人間の意識では立ち入り禁止とされていた物自体の内部へと不法侵入を果たしていくこと。それによって、わたしたちは「神」という呪いの言葉から解放されていくことになる。
そろそろ、「いるもの(現存在)」は「あるもの(存在者)」から逃れて、「なるもの(生成)」へと向かう必要がある。ハイデガーはそれが技術の本性だとも言っている。自然との共生もこの新種のテクノロジーの誕生によって初めて可能になるのかもしれない。
その意味で言うなら、人間のテクノロジーは見事に引っ繰り返っている。原因は自己と他者を逆さまに見ているところにあるのだろう。意識におけるこの錯視によって逆生成の模倣回路(シミュラークル)が生じている。ここにエネルギーを注いでいるのが資本主義の欲望だと言っていい。となれば、現代資本主義における貨幣とは、根源的時間の物象化と言えるものになる。時は金なり―言い得て妙だ。
7月 18 2018
最近、ハイデガーを読みだした
ハイデガーを嫌っていた。
今までに読んだ本と言えば『存在と時間』だけだったけど、とにかくハイデガーを嫌っていた。
理由は単純。
僕の好きな哲学者であるドゥルーズがハイデガーを煙たがっていたから。
ひどい理由だ。ヌーソロジストにあるまじき態度だと我ながら思う(笑)。
フランスとドイツの間には、ちょうど朝鮮半島と日本のような歴史的しがらみがある。
フランス人のドゥルーズが、ナチスに加担した履歴のあるドイツ人のハイデガーを素直に読むのは無理だ。
おそらく、そのせいだろう。ドゥルーズはハイデガーに多大な影響を受けているにもかかわらず、ハイデガーを隠す。そして、そして批判側に回る。
そのようなドゥルーズの波動に感化され、ドゥルーズの本を10冊以上丹念に読んできた僕は、ハイデガーを嫌っていたというわけだ。
しかし、ハイデガーを読み直してみると、やはりすごい哲学者だと思わざるをえない。
古代哲学に対するその博識さや近代哲学史家としての論理の分厚さは当たり前として、ハイデガー哲学には、それ以外に何かただならぬ妖気が漂っている。ドイツ語の言霊的分析からの独自の用語や言い回しが多用されるせいもあるだろうが、ぶっちゃけて言うなら、ゲルマン民族の霊の叫びのようなものをそこかしこに感じるのだ。
音楽(ギター)で言うなら、大御所のブルースマンに似た何か。
ドゥルーズは、その辺はフュージョンである。
どうしても、フランス風の流麗さが残る。
だから、情念をそれほど濃く感じることはない。
本物のブルースマンはクロスロードに立たなくてはならない。伝説のブルース・マン、ロバート・ジョンソンが「十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」のと同様に、ハイデガーもまた悪魔に魂を売り渡す覚悟で哲学を奏でている。その「先駆的覚悟性」が読んでいてひしひしと伝わってくる。
残念ながら、今の僕のメンタリティーはそれほど強靭ではない。ハイデガーに魅かれるところがあるとするなら、その覚悟性だろうか。早い話、彼には何かが憑いている。
これから、ハイデガーの話がちょくちょく出てくるかもしれない。
「量子論、ドゥルーズと来て、ハイデガーかよ。半田氏、勘弁してよ。」
ただでさえ、難解呼ばわりされているヌーソロジーが、なおさら難解と言われるようになるかもしれない。
しかし、自分の欲望はヌーソロジーを分かりやすく啓蒙することだけに向いているわけじゃない。もっと、深みのある思想に磨き上げていく必要があると強く感じている。
そのためには、ハイデガーに感じるそのクロスロード感覚を吸収する必要がある。
かつ、これが大事なことなのだが、古代の民族的な霊に振り回されないようにするためにも、ここはハイデガーの思念をヌーソロジーの機械群を使って、徹底して追跡する必要がありそうだ。
それによって、ハイデガーの哲学が民族の歴史性へと回収されてしまった理由も明らかになるかもしれない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ハイデガー関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ, ハイデガー, 量子論