8月 8 2018
「それをそれ自身のほうから現れてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにする」―とは?
円卓の中央にリンゴがある。デカ !(笑)今、円卓に人が座り、全員がこのリンゴを見つめているとしよう。人それぞれの視野空間は当然、奥行き(虚軸)を持ち、そこに純粋持続を根付かせていると仮定する。そこでリンゴを回す。「わたし」が見ていたリンゴの「表相」が他者の持続空間へと侵入していく。
「わたし」は決して他者の奥行きには入れないにもかかわらず、リンゴは易々とそれを成し遂げていることに注意。リンゴは自転することによって、円卓に座るものすべての眼差しを統合し、そこにリンゴという存在者を花咲かせる―これはハイデガーのいう自性態と深い関係を持つ。
3次元空間の中に物があるんじゃなくて、眼差しと一体となった物が3次元空間を作り出しているんだよ。そろそろ、この仕組みに気付かないとね。
この仕組みは当然、自他の奥行きの空間同士が作っている仕組みだから、延長認識の中ではミクロ世界の中に収縮したような形で見えていて、物理学者たちがスピノル場と呼ぶものになっている。陽子と中性子が作られているところ。つまり、物の根底部ってことだね。
物理学やハイデガーが出てくると話が難しくなるけど、言ってることは単純。つまり、空間もそうだけど、人は時間の中に生きているのではなくて、時間として生きているということ。そして、時間には流れる時間と流れない時間があって、流れる時間は流れない時間同士が一体となったところに生まれてる。
そのプロセスにおいて、その間(あいだ)を結ぶものとして「物」が生成してくるわけだね。これがヌーソロジーから見たフィシスの仕組み。―それをそれ自身のほうから現れてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにする―というハイデガーの言葉の意味が少しはイメージできてくるんじゃないだろうか。
8月 16 2018
対象と情報―物と言葉
残念なことに、ハイデガーは量子論についてはほとんど語っていない。『技術への問い』に収められている「科学と省察」という論考の中で古典物理学と原子物理学の根本的な違いについて述べてはいるものの、深入りすることは避けている。残念だ。
ハイデガーはそこで自然を対象として見なす科学の視座を批判している。主観-客観関係は、どうしても、先日「ゲシュテル(集-立)」のところでも話した「用立て」へと回収されるというのだ。物を人間の生活の役に立つように改変するということ。そして、それを真っ当なものとしている私たちの日常感覚。
後期ハイデガーがひたすら訴える「性起(自性態)」という概念も、まさに、自然を対象として見なさないための思考の立ち上げへの格闘だった。言い換えれば、わたしたちは自らの精神をいかにして外化させることができるのか―この辺りが、ヌーソロジーとガッツリ問題意識を共有している。
考えてみれば、今では自然のみならず、言葉(ロゴス)までもがゲシュテルの体制で動いている。それは言葉が「情報」と名を変えたところに起こっている。情報戦略、情報産業etc。わたしたちは「用立て」のために情報を狩り集める。対象が物の死骸であるのと同様、情報もまた言葉の屍と言っていいものではないかと思う。
物は単なるエネルギーの塊ではないし、言葉も物を表示する単なる記号などではない。それらは、無窮の霊性が持った二つの性のようなものだ。ほんとうは女神と男神と呼んでもいいものではないかと感じる。それらを単に対象-情報と呼ばせている思考者の姿を、一度、じっくり想像した方がいい。
※下写真は、特定の雑誌を批判しているわけではないので、あしからず。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: ハイデガー, 量子論