2月 12 2019
ハイデガー哲学をトランフォーマーの空間に移し替えてみた
ハイデガー哲学の基本的な概念をヌーソロジーが用いるケイブコンパスにマッピングしてみた(下図)。観察子概念のイメージを広げるための参考にしてほしい。ほんとうは大系観察子で示されるべきものだが、分かりやすくするために、ここでは次元観察子で配置している。次元観察子と大系観察子は入れ子的な構成になっているので、それほど意味合いは逸脱しない。
ということで、少しだけ解説しておこう。
ここに示した「存在者」とは外的に認識されている事物のことを指す。図からも分かるように、それはΨ9(思形)の働きによって送り届けられるが、ここで送り届けられるものとは存在自体が転倒したものである(赤が先手になってしまうところにそれが示されていると考えるといい)。
このΨ9の働きに対して、存在は自分自身を人間に委託するための方向性を逆の方向に生み出す。それがΨ10(感性)の働きであり、ここに、存在へと方向を向けた存在者の次元が生み出される。ハイデガーはそれを「現存在」と呼び、人間の根本的な在り方とした。人間は存在の守り人(牧人)でもあるというわけだ。
さて、こうやって、存在、贈与(Es-gibt)、存在者、現存在という四者の関係性をケイブコンパスに配置すると、「存在は自分自身を存在者として明るみに出すと同時に隠れる」という、ハイデガーが執拗に連呼する「アレーテイア(非隠蔽性)」の仕組みが、比較的たやすくイメージできてくるのではないかと思う。
図からも分かるように、存在者として明るみに出された事物はΨ9方向に認識されるか、Ψ10方向に認識されるかという二つの方向を持っている。これが客観的事物(実在的対象)か、主観的事物(感覚的対象)の違いだ。ハイデガーが『存在と時間』で行った現存在分析も、主にこの二つの対象の違いをめぐるものだった。
たとえば、科学のように、人間を生物学的な存在として見てしまうと、人間は存在者一般の中に投げ込まれてしまい、現存在としての存在への方向付けは失われてしまう。このような思考態度はハイデガー的には「頽落」の産物となる。存在がまったく忘却されているということだ。
ハイデガー哲学が目指したのは、そのような頽落から逃れて、現存在としての人間がいかにして、自らの通底に潜む存在を開示し、このEs-gibt(贈与するもの)を含む全体的な機構の中で、存在全体を了解するかということにあった。
その了解によって、今までの形而上学が等閑にしていた存在者と存在の差異(存在論的差異)がはっきりと認識されることなる。
ハイデガーのいうところの「真理」=〈アレーテイア=非隠蔽性〉というものも、その認識への思考の到達のことを意味している。
ハイデガーが言ってることは、個人的にはまったく正論だと思う。ただ、こうしたハイデガーの表現ではもう時代が受け入れないだろう。やはり、神秘主義的で根拠に乏しい。とりわけ、科学との接点がないのは致命的だ。科学が存在者の構造の学であるなら、アレーテイアの仕組みがその構造にどのように介入してくるのか、当然、科学の言葉でも表現することが可能なはずである。
ヌーソロジーはこうした存在論的構成をそのまま素粒子構造と結びつけ、開示されるべき脱-自(存在を露わにすること)の構造は素粒子に潜んでいるということを示していく。
「存在へと身を開き、そこへと出立つ在り方」とは、人間自身が自分自身の根拠を素粒子に見るところに生まれるということだ。
そして、ヌーソロジーはこの理念型を持って、迫り来るAI時代にそのカウンターとして生まれてくるメタヒューマンの在り方とする。それがまた「トランスフォーマー」の定義でもある。
人間が目の前から〈幅〉を取り去るとき、脱自としての〈奥行き〉が存在の名の下にその姿を露わにしてくることだろう。そこにおいてすべては世界-内-存在と化す。
2月 18 2019
ハイデガー哲学とOCOT情報をミックスして語ってみる
ハイデガーが言ってることはOCOT情報とほとんど同じ。
まず、ハイデガーのいう脱自(非本来的な自己の外へと抜け出し存在を了解すること)はOCOT情報でいう「付帯質の内面の顕在化」に相当してる。
これは、いつも言ってるように「幅化している奥行きの下に潜む持続としての奥行きに根源的時間を見出すこと」を意味している。
このとき生まれる奥行きの力のことをOCOT情報は「形質」と呼んでる。
形質とは持続空間で活動する形相としての精神のこと。
形質が働き始めることによって、核質(物質概念)は中和されていく。
これは、ハイデガー的にいうなら、存在者の思考から存在の思考へと遷移していくということ。
存在の思考とは、OCOT情報の文脈からすれば複素空間認識が始まることによって、対象的思考の働きが減衰していくことを意味している。
数学でいう複素平面は「形質の対化」に相当している。
形質の対化が生まれると、そこから精神は形質の等化に向けて動きだす。
そして、この「形質の等化」が「カタチ」を作り出すと言う。
「形質の等化」とは、分かりやすく言うなら、奥行きが幅側へと捻れることを意味してる。この捩れは物理学的にはクォークのスピノルのSU(2)を意味してる。
SU(2)が持ったこの捩れが物の起源(核子)となってる。
このSU(2)から僕らが時間と空間と呼んでいるものが現れてくる。
つまり、SU(2) という運動によって、物と時空が、隠れと現れを同時に併せ持つようなかたちで作り出されてくるわけだ。
物を物自身の方から現れてくるとおりに、物自身の方から見えるようにする―これがハイデガーのいうエルアイグニス(性起)の数学的仕組みになっている。
この「現れ」と「隠れ」は決して断絶したものではなく、付帯質の内面から見れば、単純な同型性に基づいた連続体になっていて、かつ、この同型的な生成の循環は無限に反復していく。この真無限的な反復が物の多様性を生成していっている。
人間の意識はこうした精神の運動に対する反映として生み出されている。そのため、カタチをつくる方ではなく、カタチを対象として見る方向に持っていかされている。生成から追い出され、生成を対象側に見せられる位置に置かれているということだ。
こうした状態をOCOT情報は「形質の中和」と呼んでいる。要は、形質が働いていないということ。これが延長意識に当たると思っていい。時間と空間による幅支配の世界認識だ。
幅認識だと、当然のことながら、SU(2)を認識することができず、その下次元的投影であるSO(3)しか見えない。これは、非局所が局所へと落とされていることを意味するんだけど、持続において思考していないからこういうことになる。
ハイデガー的にいうなら、存在を見ず、存在者ばかり見ているということだね。そして、思考も存在者の域から出ない。
OCOT情報から見るなら、ハイデガーは正しいことを言ってる。
でも、ハイデガーの表現は晩年まで可能態のままで、現実態にはなっていない。
だから、「かろうじて神のごときものだけが我々を救いうる」なんてことを言ってしまう。
これはいかんよ。だから、神秘主義や信仰主義って揶揄されるわけだね。
※下左イラストは堀内亜紀さんの作品「大物主」をお借りしています。OCOTをキャラ化したときのイメージだよ^^
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: OCOT情報, SU(2), ハイデガー