2月 20 2019
「結び」と素粒子
時空という場所から素粒子について思考するのではなく、わたしたちを一度、素粒子という場に置いて、そこから時空について思考することが必要だ。その方法だけが内的に外が見れる知性の発生を可能にする。ハイデガーが言うように世界を正しく認識するためには、このような「転回=反転」が必要なのだ。
わたしたちが時空と呼んでいる場所は「すでに構築されたところにあるコミュニケーション・プラットフォーム」にすぎず、そこで自他が対等に繋がれる可能性は残念ながらゼロに等しい。ヘーゲルが言うように、自他関係はそこでは主奴関係に向けて収斂していく。それは今の世界の現状を見れば明らかだ。
自他間の対等な出会いとは、「転回=反転」において初めて起こる。こうした出会いを古神道でいう「結び(産霊)」に重ね合わせてイメージすると面白いかもしれない。空間化した時間(持続空間)を自他の間で結び合うこと。その結び目が何度も巡ることにより、物質としての自然が現象化しているのだ。また、そこに高次世界の本質がある。
「結び」はギリシア風に言うなら生成のことでもあるから、これはハイデガーのいうアレーテイアの身振りと言っていいものになる。
数学的にはn次元の結び目は(n+2)次元によって可能になると言われている。たとえば、一次元のヒモが結び目を作るためには、まずはヒモを輪っか状にして(2次元方向)、そして、ズラす(3次元方向)必要がある。「結び=産霊」の場合は3次元空間そのものを一本のヒモと見て結び合せる。
つまり、大雑把に言えば、4次元方向で輪っかを作り、5次元方向でずらして、そこに結び目=物質が現れるということになる。ハイデガーのいう「隠されたものが自分自身をあらわにする」という「アレーテイア=真理」の仕組みを知性で理解するためには、少なくとも5次元の認識が必要になるということだ。
人間の科学技術による生成はこの「結び」が真逆に転倒した場所で起きている。ハイデガーが「ゲシュテル」と呼んでいる機構の体制だ。真逆なのだから、そこで自他が出会う可能性は全くない。近代という意識回路自体が、自己が自分自身を他者化させていることによる言わば「ひっくり返ったアレーテイア」の仕組みなのだから、科学技術の進歩は自他関係をますますよそよそしくしていく方向に働いてしまうのだ。
それだけじゃない。この場所では、人間は自他もろとも、ハイデガー言うところの用象(生産のための対象)となり果て、技術のための道具にすぎなくなってくる。労働資本としての人間。生産に寄与する人間。まさに資本主義という反自然力の支配に人間は駆り立てられ、今では人間は存在の牧人という位置からは遠く離れ、人間ならざるものと化してきている。
この危機的状況にどれだけ意識的になれるかは、時空を素粒子側から見れるかどうかにかかっている。というのも、素粒子こそが「存在」だからだ。その意味でも、原子力や量子コンピュータなど、素粒子を用象と見なすことは極力差し控えるべきだろう。意識がその局面に入るということは、存在側が人間を切り離すことと同じ意味を持っていると考えられるからだ。
いや、技術は否定されるべきものではなく、回りまわってくる人間の命運でもあるので、より正確に言うなら、素粒子が用象となるところまで時代が進んできているのなら、同時に、人間は素粒子を存在として開く時期に来ているということだ。その二つの方向が揃い踏みしてこそ、存在のバランスはかろうじて保たれる。そして、それが今から訪れてくる新世界だということになるのだろう。
無論、ヌーソロジーは後者の作業に関わっている。
いずれにせよ、意識が「人間」である時代は終焉を迎えている。やがてやってくる新たなる時代が「開けて」おめでたいかどうかは、これからのわたしたちの思考態度に懸かっている。
2月 26 2019
八つ裂きにされたオルフェウスの復活を!!
二重の国で歌声が
はじめてやさしく
永遠となる
―『オルフェウスへのソネット』リルケ
ヌーソロジーの文脈から言えば、素粒子の認識はハイデガーのいう「性起」というやつに当たるんだけど、これはハイデガーの歴史観でいうなら「新たな始元」に当たる。
人間の意識に素粒子認識が始まることによって、今までの歴史は終わり、新たな別の次元の始まりを迎えるということだ。これはドゥルーズのいう永遠回帰と同じものだね。
この「新たな始元」の自覚は、ヌース的に言うなら、時空的には無限大=無限小の覚知として開始されるのだけど、いつも言ってるように、この気づきは空間における幅と奥行きの交換によって思考可能なものへと転じてくる。
幅で空間を見れば無限大となるけど、奥行きで見れば、それは無限小に回収されるという意味だ。
同時にこれは他者構造(見られたところでの意識による世界構成)から自己構造(見るところでの意識による世界構成)へと向かう離脱でもある。他者視線を一度切ることによって、主観の下に眠っていた精神(持続体=存在)が目を覚ますってことなんだけど。
ハイデガー風に言うなら、これが「時空において最も遠くあるが、同時に比類なき近さとして現成する〈最後の神の到来〉」の意になる。
まったき奥行きにおいて人間は神(存在)と合流するってことだね。ハイデガーは存在のことを「根源的時間」とも呼ぶんだけど、これはヌースでいう持続空間のことを意味していると考えていいと思うよ。
今の僕らには、この持続空間が全く見えなくなっている。世界は硬直した物体の場所と化してしまい、それらはただただ有用性のもとに科学技術の対象としてしか見なされなくなってるでしょ。
ハイデガーは、こうした存在棄却の極まりにおいて「最後の神」が到来してくると考えてる。これもまたOCOT情報のいう「最終構成」の意味に近い。
ハイデガーによると、「最後の神」の到来は別の始元を発動させてくるんだけど、それは同時に、存在史的時空(今まで僕らが宇宙と呼んでいたもの)からの逃亡と、現存在(人間の意識)からの脱去を意味してる。
こうしたハイデガー後期の内容は、よくドイツ神秘主義の援用とか言って揶揄されるんだけど、僕からしてみれば、ほとんどルーリア神学(近代カバラ)をなぞっているかのように見える。「悪が混じった世界からの神の撤退によって創造が始まる」という神の逃亡劇による創造論のことだね。
だけど、こうした神秘主義的態度では、現在の圧倒的なゲシュテル(科学技術の本能のようなもの)の力を乗り越えることは難しい。科学的知性自身がこの最後の神の到来の合図に気づかないといけない。
合図に気づくとは―
空間を二重化させること。自らが脱去しつつ、自らを贈り届けるというかたちで虚的なものと実的なものが双対で協働している存在自身の空間を切り開くこと。
それがヌーソロジーが言っている「複素空間認識」の意義なんだよね。
オルフェウスは宇宙の万物の中にとどまり、そこから今もなお歌ってる。その歌声に耳を済まそう。それは持続空間に住む、まだ見ぬ永遠の我と汝のハーモニーと言っていいもの。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ, ハイデガー, 奥行き, 素粒子, 複素空間