4月 10 2015
カタカムナ人の知性の美しさ
奥行きに持続体を感じ取る思考はもはや対象を持たない。思考することと思考されるものが一致を見るのであれば、そこに現れるものは純粋思考とも呼ぶことができるだろうし、純粋物質と呼ぶこともできる。この純化(カタルシス)の名において初めて思考と物質は一致を見ることができるのだ。
おそらく幾何学の本質はこの純化にある。この純化された幾何学体はおそらく始まりの顔と終わりの顔という二つの顔を持っている。始まりの顔とは物質を織る糸として役割を果たす顔であり、終わりの顔とは織り込まれた物質の記憶を保存する零度の記憶=想起の器としての顔である。
それゆえ宇宙=生成はこの純化された幾何学的運動のウロボロス的円環からなるとも言えるのだが、この始まりと終わりの繫ぎ目には円環の外部を志向する「無」への欲望もセットされている。それが接線として出現する直線化のパトスと考えるといいだろう。われわれの身体とはこの接点の断面である。
無を破壊することは果たして可能だろうか。存在に無限遠点の一点を穿ち、幾何学に純化をもたらすことは果たして可能だろうか。純粋思考と純粋物質を持って新しいカタルシスを世界にもたらす者——新時代のカタリ派たち(注*カタリ派とは13世紀に十字軍によって虐殺された最後のキリスト教グノーシスの一派)の登場がここは是非とも待ち望まれるところだ。
カタカムナでは主体は〈クニツトコ〉と呼ばれ、それはアマウツルマリであったという。一方、客体は〈クニツマリ〉と呼ばれ、それはアマヤドルマリでもあったという。そして、この二つのマリのトコタチ(ソギタチ=収縮とソコタチ=膨張の正反の逆性の互換重合)によって表されたのがマトマリとしての「モノ」とされた。
OCOT情報では主体の場所は〈垂質〉とも呼ばれ、それは身体から広がる時空のことを意味する。一方、客体は〈垂質の反転〉と呼ばれ、それは時空そのものが広がりから一転、収縮を行なったものである。これら両者は複素平面上の実軸と虚軸にスピノルとして縮約され、両者は位置の変換(SU(2)変換)によって等化され、物質(モノ)の基礎となる「球精神=陽子」を構成する。
カタカムナ人の思考とOCOT情報が持った主客概念に対する見方が全く同じだということに今更ながら驚いている。それにしても、アマウツルマリとアマヤドルマリという表現の美しさには心から感嘆させられる。ほんとに見事!!としか言い様がない。
自己と他者はモノの外部と内部という関係の中で位置を与えられており、双方からトコタチ(両者の間の互換重合)を諮っている。この二つのトコタチが、クニノトコタチとアマノトコタチの本質である。そしてこの二つのトコタチこそが物理学がゲージ対称性と呼んでいるものの本質にほかならない。トコタチとは「対称性変換」の異名なのだ。
外部が収縮して内部に入り込む性質を空間が持っているということ。こうした性質は奥行きとして達成されているということ。そのとき、奥行きは持続としての働きに変容しているということ——こうした超古代的な空間感覚を発芽させる時代へと人類は再び、回帰してきている。それが覚醒期というものなのだろう。新しいカタルシスの出現の胎動を日々、強く感じている。
5月 8 2015
次元、カタカムナ、もの。。。
物理学は空間の次元を線分の直交性で見ますが、この次元観は忘れましょう。本当の次元とは「球」でみないとダメです。「球」=「霊(たま)」と言ってもいいですが、次元とは精神が形作っているものであって、物体としての3次元が形作っているものではないんですね。
そのためには、線と球体を同じものとして見ることのできる認識を作らないといけません。
一番分かりやすいのは、球体としての物体と視線の関係です。目の前でこの物体を回転させたとき、視線は物体が持っている球状の空間をすべて含み持つことが分かります。つまり、物体の空間においては球だったものが、視線の空間では線へと変換されているということです。この球体→線という以降は、視線の空間、つまり、「見る」ということが起こっている空間は、物体が形作っている空間よりも次元が高い、ということを意味しています。
次に視線を回してみましょう。そこには新しい球空間が出現してきます。自分の周囲の空間です。しかし、視線自体は常に身体の「前」方向を向いているわけですから、身体にとってはその球空間は一本の線にすぎません。ここでも、球体が線へと変換されていることが分かります。
こうして次元は線→球体→線→球体→線………というように、球体を次の次元の線へと変換することによって次元を上昇させていきます。
このような認識で空間が見えてくると、空間の収束性と重畳性というものがハッキリと意識に浮上してきて、空間に内在しているほんとうの次元構造というものが分かってきます。カタカムナではこうした収束性と重畳性のことをタバネタチ(=収束性)とカサナリタチ(=重畳性)と呼んでいるようです。
この「本当の次元構造」というのが素粒子構造です。4次元時空というのは、むしろこの本当の次元構造が全く見えなくさせられている状態です。
その原因は、時空では無限遠点が抹消されているからです。無限遠点が抹消されているという意味では、時空は次元が存在していない世界と言ってもいいでしょう。
「無限遠点が抹消されている」というのは、観測者が空間に含まれていない、という意味です。
タバネタチ=空間の収束性は、物理学では波動関数の表現空間、スピン空間の表現空間など、それぞれ表現の違う複素空間で表されています。
カサナリタチ=空間の重畳性の方は複素空間の虚軸と実軸の直交性と時間と空間との直交性の重なりの中に表現されて行きます。
この辺りの仕組みをカタカムナは「トキ・トコロのマリ」として表現しているようです。
この「トキ・トコロのマリ」の無限の重合性が「もの」を構成していきます。無限遠点を含んで認識されているものが「もの」で、無限遠点が全く認識されずに時空に表出している「もの」が物質と考えるといいと思います。「もの」と「物質」は全く違う存在です。
「もの」においては内部と外部は等化されていて、「もの」は自らの内部性を外部へと反転させて、外部から自分を見るような場所を送り出しています。それが肉体として現れている自我の位置です。その意味で言うなら、自我は主体ではなく、「もの」が自分を外から観察するために設けた場所にすぎません。
つまり、「もの」が自我において「もの」を見て、考えているのです。「ものごころ」というやつですね。
しかし、現在、この「もの」が「もの」本来の場所に戻ろうとし始めている感覚があります。この「もの」への回帰感覚を切り開いていくことができるのは、日本語の精神ではないか、と最近はいつも、文字通り「もの想い」にふけっているのですが、あまり理解されないので「ものさみしい」想いで過ごしています(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: カタカムナ