6月 19 2015
ヌースレクチャー2014 IN 東京 第6回のご案内
第6回のテーマ「カタカムナとヌーソロジー」
デカルトは物体がなければ空間は存在しえないと言った。デカルトにとって空間とは物体が持った延長性にすぎなかった。この考え方が現在も人間の空間の見方を支えている。デカルトのいう通り、そのような空間はすべて物体と大差がない。つまり物質の空間なのだ。
ヌーソロジーは逆にこう言いたい。「空間が存在しなければ物体は存在しない」と。ただし、この空間はデカルトの言う延長などではない。むしろ彼のいう精神の方だ。デカルトは精神の在処が”奥行き”にあることに気づかなかった。精神の本性は奥行きの空間にある。物体はこの奥行きとしての精神から創造されていくのであってその逆ではない。
デカルトのように延長として空間を思考し、そこに座標や尺度を設け、物体の運動を数学化してみせたとしても、奥行きを忘却している限り、ほんとうの宇宙に触れることは決してできない。
カタカムナはこの延長と精神のつながりを熟知していた。延長は精神へと吸収され、精神はその内部から再度、延長を表出させる。この延長(幅)から精神(奥行き)への反転の身振りを、カタカムナ人たちの哲科学は「アマ」が「カム」を指向する思念とし「アマヒ」と呼んでいた。そして、その「アマヒ」はソコ(膨張)とソギ(収縮)のトコタチ(共役共有性)として正反双方向にメグルアマとして循環し続けていると考えていた——。
カタカムナの哲科学はこの日本においてまもなく甦る。日本語の精神はそのために生きている。この復興に少しでもヌーソロジーが役立つことができれば、と心から思っている。
このレクチャーシリーズの最終回です。皆さんのご参加をお待ちしています。
7月 10 2015
カタカムナに関する長〜いつぶやき
次回のレクチャーのテーマになっているので、カタカムナ関連の本(相似象学会誌)の何冊かを読み直しているところだけど、カタカムナの図象文字のシステムはすごいね。カタカムナ文字自体がすごいというのもあるんだけど、これを解読した楢崎氏の思念にもほんと恐れ入ります。
カタカムナ人たちは主体のことをアマウツルマリ、客体のことをアマヤドルマリと呼んでいたのだけど、何と美しいモナドの表現!だろ! 剣心の「 天翔龍閃( あまかけるりゅうのひらめき)」に似てるけど(笑)、空間として宇宙とともに生きている自分たちのことをありありと感じていたんだね、きっと。
致し方ないこととは言え、それに比べて、現代人の空間はいかに貧相でみすぼらしくなってしまったことか。こりゃ骸骨だよ。科学的世界観に催眠術をかけられて、命が生きている空間を見えなくさせられてしまっている。その空間を取り戻さないと、きっと、世の中は何も変わらないと思うよ。3次元空間だけの世界ってのは、結局、骸骨をいくつ集めたかを競い合うような世界なんだよね。
OCOT情報は「カタカムナ文明は存在した」と伝えてきたのだけど、僕自身は「ほんまかいな?」と最初は半信半疑だった。しかし、初めて相似象学会誌のページをパラパラとめくったときに、OCOT情報との類似性があまりに多く、ひょっとして「これってヒトの文明でねーの?」と感じてきたんだよね(笑)でも、十数年ほったらかしにしてた。
前にも呟いたと思うけど、OCOTの存在とカタカムナの関連性を感じ始めたのは「チカ」という言葉の意味の一致からなのね。これはつい最近。一年ほど前かねぇ〜。偶然の一致にすぎないと言えばそれまでだけど、僕の直観の中ではとてもデカイ出来事だったんだよね。
昔、OCOTにこんな質問をしたんだよ。「どうして近づくとモノは大きく見え、遠ざかると縮んでいくように見えるのか」って。するとOCOTは「空間の中にある〈チカ〉がそうさせています」と言ってきた。「何じゃ、チカって?上田知華か?そんなのとっくに消えたぞ。わけわからん」と普通はなるのだけど、足りない頭で必死で考えた。
自分なりの答えが見えてくるまで、結構、時間がかかったのだけど、最終的に出た結論は、不確定性原理に似たものだった。奥行きを虚軸、幅を実軸と見なせば、奥行きが小さくなれば幅は大きくなり、逆に幅が小さくなれば奥行きは大きくなる。知覚野を単位円内部の出来事と見なすと、モノの見えと奥行きの関係はそういう関係になる。
そこで、OCOTに「空間に存在するチカ」とは不確定性原理を与えているものか、と聞いた。そしたら、「その通りです。」と言ってきた。
で、つい一年前ほど、カタカムナの本を読んでいるときに、この「チカ」と深く関係するような箇所があったんだ。
カタカムナ文字では「チ」は「十」の縦軸の上端に小円の「○」をつけて表す。一方、「カ」のほうは「十」の横軸の右端に同じく小円の「○」がつく(下図参照)。つまり、十字をベースにして、カ→チというのは、○が90度回転している関係になっているわけだね。カタカムナの十字を複素平面の実軸と虚軸と見て、いろいろと考えていた僕にとっては、これは無茶苦茶、衝撃的な出来事だった。
というのも、この文脈で「カ」と「チ」を解釈すると、「カ」は位置空間、「チ」は運動量空間との対応になるからなんただね。量子力学では位置空間と運動量空間は反転していて、この反転性を複素平面上の90度回転で表現するんだよね。この回転は波動関数ψ(x)を位置で微分する意味で、運動量の量子化を意味してる。こういうやつ→ p=−ih・x/∂x。
おまけに、カタカムナでは「カ」は空間軸としてトコロのエネルギーと関係し、「チ」は時間軸として持続のエネルギーと関係しているとまで言っている。まさに価値(カチ)の方向は、「カ」から「チ」=持続の方向にあると言わんばかりにね(笑)
手前味噌な話で申し訳ないんだけど、実軸を幅、虚軸を奥行きとして考えると、話が全部つながっているんだよね。
カタカムナを少しでも知っている人は分かると思うけど、まず最初に「?」となるのが〈アマ始元量〉というやつだよね。「〈アマ始元量〉が微分化されたものが〈アメ〉である」と言われてもサッパリイメージがつかめないのではないかな?ヌーソロジーから見ると、このアマからアメへの微分化は空間認識の幅から奥行きへの移行に対応している。つまり、このカ→チに似てる。アマからカムに流れ込むと言ってもいい。
ヌーソロジーがいつも言っている「空間認識の幅から奥行きへの移行」というのは、奥行きに幅を充てがって見ている状態から、ありのままの奥行きで見る状態への移行っていう意味だけど、カタカムナのような哲学が残されているってことは、幅と奥行きの違いを昔の日本人は自然に認識してたってことだね。
「空間は3次元である」とか「世界は4次元時空である」とか言ってるヤツが周りにいたら、「貴様はそれでも日本人か!!」と言ってあげよう(笑)。日本人はアマ感覚にかなり支配されてしまっているけど、本質はアメ感覚で生きているんだよ。つまり、奥行き=ミクロ=微分化領域で生きているってこと。
目の前の空間に対してこのような二つの接し方があるということをまずは意識に上げないといけないね。主体と客体が分離して感じているのなら、それはアマ感覚で、奥行きに幅が入っちゃてる。もちろん、そのときの君は物質のかたまりにすぎない。
しかし、君が世界に真に接しているときは、アメ感覚。奥行きそのものとして生きていて、主客の分離ははなく、君は微分化されたミクロ領域にいる。そのとき君は「霊」になっている。
カタカムナはね、この霊がどのようにして物質を作り、そこからまたアマへと出て、そして、そのアマからまたカムを通してアメになり云々、という回りて巡る生命の道について語っているんだよね。そして、昔の日本人はそこに生きていたって。君は取り戻せるかな、原-日本人の精神。
何度も言ってるけど、空間は空っぽの容器とかじゃないんだよね。君が空間なの。君自身がね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 10 • Tags: OCOT情報, カタカムナ, 奥行き