3月 22 2016
自然を霊化させていくために
幅で構成される空間は外延性であり、奥行きで構成される空間は内包性である――この原則に則って空間を再構成していかなくてはならない。たったそれだけでも、宇宙の見取り図は真実にグッと接近してくるだろう。
言うまでもなく、外延性は物質の場であり、内包性は霊の場である。この差異が見えず、外延と内包が混淆している現在の我々の意識状態が魂の場と言っていい。言い換えれば、人間の魂とは迷いの場でもあるということだ。
幅の空間と奥行きの空間の分離感覚が意識に明確化されてくると、外延性に出現している物質が内包空間の高度な組織化の末に立ち現れているということが朧げに感覚化されてくる。その感覚が日増しに強くなり、やがて一つの確信へと変わったなら、君はそのとき「世界を反転させた」と言えるだろう。
ヌース(能動知性)のための思考の大地が開いたのだ。
生きるモナドへと変身した君は、やがて外延空間が内包空間から生み出されていることに気付き出す。外は「わたし」と無関係に展開しているのではなく、「わたし」の内側にあるものの更なる内への前進によって繰り広げられているのだ。
この仔細な仕組みがヌースによって思考されたとき、外延性が何故に「公共」と呼ばれるものかがはっきりと分かってくる。つまり、外延性とは本当は共同内包性と呼ばれるべきものであり、そこで自他はわたしたちが「わたしたち」であることの根拠を見出すのだ。
上古代人たちは、こうした共同内包性の世界に生きていたと考えてよい。この共同内包性とは、例えばカタカムナ人たちが言う「トキトコロノマリ」のことである。
こうした場所概念を持つことなく、エコロジーや自然との共生を叫んでも、事態は何もかわらないだろう。なぜなら、人間の精神自体がまだ、この精神と自然の連続性を自らの内に意識化できていないからだ。もちろん、行動や行為が大事なことは言うまでもないが、その意思を強靭なものにするためにも、自らの中で自然をまず霊化させることが優先されなければならない。
「霊」という言葉が嫌いであれば、ドゥルーズ風にこういう言い方もできる。
このような概念の創成によって、空間―時間は純粋な所与であることをやめ、主体における微分的関係の集合あるいは繋がりとなり、そして、対象[客体]そのものは、経験的な所与であることをやめ、意識的知覚におけるこれらの関係の産物となる。
自然と共に生きるということは、外延を共同内包性として感じ取った「わたしたち」として生きるということであり、それは霊となって生きるということにほかならない。
4月 1 2016
君の魂のカタチについて・・・Into the ether
3次元射影空間のカタチについて紹介しておきます(下図参照)。
これは「観点の球面化」が意識に達成されたときに見えてくるカタチです。最初の内なる火(霊)である正四面体を生み出す卵のようなものと考えるといいでしょう。
**********************************************************
3次元射影空間のカタチは、おそらくカタカムナ人たちが「アマウツルマリ」と呼んでいたものだろう。これは奥行きに持続を見たときの宇宙球そのものと考えていいが、それは宇宙全体を包むものであると同時に、目の前の一つの物体に重なって在る。
この重なりが見えてくると、一つの対象に対する知覚がわたしの心の全記憶とともに成り立っているということが、カタチそのものの認識の中で分かってくる。これがアマウツルマリが「アマヤドルマリ」でもある所以だ。ここに「もの」の知覚が訪れる。
記憶という記憶がすべて脱性化されてしまった干からびた対象としての物体ではなく、生きる持続とともに活動する生ける物体。それが古来より日本人が「もの」と呼んできたものだ。だから、それは当然、泣き、笑い、悲しみ、喜ぶ。主客未分離とはこのような空間の二重化の上で成り立っている。
こうした「もの」の知覚を行っている視線がミショーのいう「死の線」だろう。この「死の線」は他者たちが作る複数の「死の線」と「もの」の場所で出会い、そこで回転し、次なるマリであるトキトコロノマリを作り出す。そのとき非局所は局所へと無数の分身を送り出す。
トキノマリとは陽子のこと。トコロノマリとは中性子のこと。呼び名は変わっても、それらは人間の死の向こうで永遠に生きている。自己と他者がそれぞれの死の向こうにトキノマリとトコロノマリを見出し、永遠の我と汝へと変身できたとき、彼らは太陽の住人となってこの世界に舞い降りるだろう。
そのとき、地上のあらゆる物体に太陽が宿る。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: カタカムナ