2月 27 2015
カタカムナ人の世界へ
相似象学会誌第四号を再読中。久々に読んだけど面白い。時間と空間に対する考え方がヌーソロジーと全く同じ。
「トキトコロは現代人の時間空間とは全く関係なく、物質の中に存在するマリ(粒子)であり、物質の質量といわれているものは、このトキトコロのマリの量によるもの云々」P.126。
空間や時間といった延長性がどのようにして微粒子の中へと入り込むかという仕組みがカタカムナ人には見えていたんだね。ただそれが「奥行きを通して」というところまでは、楢崎さんや宇野さんは思考していなかったようだ。
思考の場を奥行き=持続において、それ自身をカム(潜象化)と見なせば、アマ(延長性)とカム(収縮性)の接続のルートが開き、思考は自在にマリ(粒子)と化し、ヒビキ(霊引き)によって、アマナ(原子核)の構成の場所へと入って行ける仕組みになっている。それが複素空間における回転性だね。
そう考えると、現代物理学というのは潜象界のヒビキの地図作成術に携わってきたアマ側の活動のようなものだったとも言えるんじゃないかな。そして、そこに見出されたものがヤサカノマガタマ(七種の単玉)で、これを現代物理学は余剰次元としての7次元球面S^7として見ている。そんな感じだね。
でも、大事なことは、こうした知識を対象として所有することではなくて、やっぱり「それに成ること」なんだと思う。これがぶ厚いカベ。だから、自分を持続の中に溶かし込んで、持続そのものとなって思考する努力と忍耐が必要不可欠なんだね。
スピノザのように「永遠の相のもと」に、ベルクソンのように「純粋持続に身を投げ入れ」、メルロポンティのように「奥行き」において、ドゥルーズのように「非人称の主体」として思考する分身を内在性の中に育んでいくこと。これが霊性を思考する者にとっての絶対条件と言えるんじゃないかな。
でも、それって、すでに生きながらにして死んでいる者だったりして(笑)
そう、それでいいのだ(笑)。
生と死もまたマワリテメグルものなのだから。
3月 9 2015
コラボ講演会&物部交野が原ツアー
2/27土曜日は六甲カタカムナの土居先生とのジョイント講演、日曜日は石上神宮〜磐船神社〜星田妙見宮を巡るヌーソロジー巡礼バスツアー(^^)。参加していただいた皆さん、ならびに主催の関西ヌーソロジー研究会の皆さん、どうもありがとうございました。個人的にも、とても感慨深いイベントになりました。
帰りの中でもバスの中で参加者の皆さんに話したのですが、2013年からヌーソロジーの活動を再会して、なぜかヌーソロジー自体の流れが半ば強制的に日本へと向けられていくのを強く感じています(笑)。正直言って、それ以前は、僕自身、日本について特別な思い入れなどなかったのですが、ヌーソロジーの全体像の輪郭が浮き上がってくればくるほど、なぜか、問い立てが超古代の日本に集約されてきているのを感じています。
今回招かれた関西のイベントでも、カタカムナとのジョイントに始まって、石神神宮では弥生祭に参列させていただき、このツアーの代表として玉串を奉納させていただきました。また、星田妙見宮では、最初は参拝後にバスの中で七夕伝説や北極星の話をヌーソロジーの観点から披露する予定だったのですが、何と宮司さんの特別のはからいで拝殿内部での講話会というかたちに。七夕伝説の日本発祥の聖処にて、ヴェガ(織女)とアルタイル(牽牛)、そして北極星についての話をさせていただきました。
何を話したかは内緒です(笑)。知りたい人は5月から始まるヌースレクチャー2015IN大阪のシリーズにきて下さいね。
何はともあれ、この2日間の体験は大変、有意義なものでした。カタカムナ→物部神道→ニギハヤヒ→星辰信仰という括りの中で、改めてヌーソロジーというものの立ち位置を確認することができたような気がしています。関西ヌーソロジー研究会の川瀬さん、廣瀬さん、そして観音企画の影山さん、鈴木さんには心から感謝いたします。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー, カタカムナ関連 • 1 • Tags: カタカムナ