4月 7 2005
大空のサムライ
昼間、電話で取引先のR社のF社長と広告の件で打ち合わせしていたところ、F氏が唐突に「半田さん、大空のサムライ見ましたよ。」と言ってきた。大空のサムライ?…はて、どこかで聞いた事があるようなないような。。「半田飛曹長、出てましたよ。」………ああ、大叔父さんの話しか。。。大叔父さんはかなり有名な零戦乗りだったんだ。映画にもなってるんだよね。名前もハンダワタリっていうんだよね。ワタリだぜ。カッコいいべ。そうやって、以前、F氏に自慢げに話したことがあったっけ………。
うちの大叔父の当時の様子は、坂井三郎という大叔父のライバルというか、太平洋戦争当時の日本の撃墜王が詳しく本に書いている。大叔父もかなりの名うてのパイロットだったらしく、映画の中では島田順司という渋めの役者が演じていた。しかし、実際の写真を見てみると、信じられないだろうが、もっと二枚目である。別の零戦ものの映画で「ゼロ戦燃ゆ」というのがあって、こちらの作品では草刈正雄が半田亘理役をやっていた。再び、信じられないだろうが、実は、こっちの方が実物に似ている。。。
はて、わたしはここで、零戦乗りの大叔父の自慢をしたいのか、彼がとてもクールな二枚目だったことを自慢したいのか。。たぶん、そのどちらも違う。大叔父も坂井も戦争では死ななかった。坂井はその後、世界中でベストセラーとなった「大空のサムライ」を書き、それなりの地位と名声の中に生きた。半田亘理は違う。台南航空ゼロ戦隊にいたとき、ラバウルで不運にも結核を患い、翼をむしり取られた鳥のように、傷心のままひっそりと本土へと戻っている。彼は故郷の久留米にもいることができず、そのまま熊本の人吉というところへ身を隠すように移り住む。そして、戦後、人知れず、そのまま結核が原因で他界した——。そんな大叔父の短い一生の物語を、わたしは幼少の頃、父から何度も聞かされて育った。父にとっては大叔父は誰よりもかっこいいアイドルだったようだ。休暇で大叔父が帰ってきたときには、必ず、金魚のフンのようについてまわり、映画やダンスホールに連れていってもらったらしい。父曰く、そのときにおごってもらう珈琲が何よりも愉しみだったという。しかし、珈琲は気前よく何杯もおごってくれたが、零戦での戦闘話をいくらねだっても、決して戦争の話はしてくれなかったそうだ。わたし自身は、そのとき、まだ、父のDNAの中の片隅に紛れ込んでいて影も形もなかったわけだが、なぜか父の目を通して、この孤独な零戦乗りの横顔を眺めていたような記憶がある。
たとえそれが喜劇であれ、悲劇であれ、身内に物語を感じさせてくれる人物がいるのは有り難い。物語の中で記憶は歪曲化され、やがては別の物語と接合し、まわり回って自分の等身大の現実の中へと重なり合うように巡ってくる。わたしの人生は大叔父ほど劇的ではないが、それでも、一つの物語であることに変わりはない。人は物語がなければ生きていけないからだ。物語はかならず別の物語を語りたがる。が、しかし、別の物語が存在したためしはない。
4月 8 2005
現実界
今日、出勤前に、少し大リーグ中継でも見ようかとNHKのBS1にチャネルを合わせてみると、「中国の幼稚園児たち」というドキュメンタリードラマをやっていた。小1時間ぐらいの丈の番組だったが、あっという間に引き込まれ、ついつい最後まで見てしまった。
内容は単純なものである。中国の幼稚園に通う園児たちの日常を淡々と撮影し、後で、ある程度の編集を加えただけの作品だ。大人はほとんど出てこない。よって、画面には園児たちの、というか、4〜5歳のホモ・サピエンスの生態が延々と映し出されて行く。プチ暴力あり、プチ猜疑心あり、プチ羞恥心あり、プチ正義心あり、プチ性愛あり、プチ国家観あり。。およそ、大人のホモ・サピエンスが持っているあらゆる生態の原型がそこには余すところなく映し出されていた。
人はよく、幼い頃と自分は何も変わっていない、と感じるという。身体の物質的な構成は当時とまったく違うものになっているし、使いこなす単語の数もゆうに100倍〜1000倍には増えていよう。それなりの人生経験も積んで来たし、自分自身を変えていくための努力もした。。しかし、この「変わっていない」という感覚は、一体、何を指して言っているのだろうか。このドキュメンタリー作品を見ていると、それが「何」かが手に取るように分かる。番組では年少組、年中組、年長組という三つのクラスが舞台となって、シークエンスが展開して行くが、途中、彼らの30年後の未来がまるで手に取るように見えるかのようである。つまり、その「何も変わっていない部分」から見れば、何も変わっていないわけだから、大人になろうとも、彼らはすべてまだ幼稚園児なのだ。
すぐ人を殴ろうとする悪ガキ、わたしってきれいでしょとちょっぴりお高く止まっている女の子。自分の風采の上がらなさにしょげている小心者の坊主。道徳心を持って悪ガキを裁こうとしたところ、逆に殴られて大泣きする優等生タイプの坊や。こいつらは、数十年後にも、全く同じ表情をして、泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしていることだろう。ここに映し出されているのは単なる幼稚園児の世界などではなく、年を取ろうとも寸分違わぬあの「変わっていないわたし」が生きている世界なのである。こうした「変わっていないわたし」の世界のことを、本当は“現実”と呼ぶ。というのも、ほんとうのところを言うと、人はそこでしか生きていないからである。
「中国の幼稚園児たち」。再放送の際にでも、ぜひ、チェックされてみるといいだろう。“現実”の世界が本当によく見える。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 2