4月 13 2005
アビエーター評
今日は会社が終わった後、家内と二人で映画のナイトショーへと出かけた。取り立てて見たい作品があるわけでもなかったのだが、スコッセシとディカプリオがタッグを組んだ「アビエーター」という作品を観た。この作品で今年こそディカプリオがオスカーを取るのではないかと噂され、結局、見事、空振りに終わった作品である。見て、なるほどと思った。これではオスカーは難しい。
ディカプリオはとてもうまい役者だ。ジョニー・デップと共演した「ギルバート・グレイブ」での身障者の演技や、「太陽と月に背いて」のランボーの役などを見る限り、彼は天才としか思えない演技の閃きを持っている。しかし、タイタニックの大ヒットが余計だった。あの狂い咲きのせいで、ディカプリオ=タイタニックというイメージがあまりに先行してしまい、観客側に取っては他のキャラへの感情移入を阻むレオキャラが無意識のうちにできてしまったのだ。幸か不幸か、役者がそうしたキャラを持ってしまうと復活には10年はかかる。ディカプリオはこの「アビエーター」でもかなりの熱演をしているのだが、どうしても、わたしの中でハワード・ヒューズへと変身してくれない。そのもどかしさが3時間というただでも長い上映時間をより冗長に感じさせた。スコッセシの演出手法が少し中途半端だったせいもある。やっぱり、今のディカプリオでは、この役柄はちと荷が重すぎたのではないか——。
まぁ、ディカプリオ評はともかく、この映画の中で描かれているハワード・ヒューズという人物、わたしも詳しくは知らなかったのだが、それこそ時代の嬰児と言っていい人物である。18歳の彼が親から莫大な遺産を受け継いだのが1920年代。この時代はいわゆるローリングトゥェンティーズと呼ばれる時代で、19世紀の古い価値観が音を立てて軒並み崩壊し、モダンへの構造変動が津波のように押し寄せて来た激動の時代だった。ハワード・ヒューズはその受け継いだ全財産を映画と飛行機へと惜しみなくつぎ込む。映画と飛行機。これらの技術はまさにプレモダンからモダンへの移行を象徴するテクノロジーでもある。こうしたテクノロジーに臆面もなく素っ裸の人間として魅了されていくヒューズは、この時代を疾走して行く無意識の高波の上をさっそうと滑っていくサーファーのようにも見える。
墜落事故で命を落としそうになっても、ただひたすら「速く飛ぶこと」の強度に魅かれ続ける彼の享楽的な生き方。その一方で、彼は極度の潔癖症でもあった。見えない細菌の恐怖に対して異常なまでの恐怖心を抱くのである。この分裂症的な気質と神経症的な気質のコントラストは、まさに資本主義という欲望機械がもった光と影そのものではないか。ヒューズはこの陰影をあまりに強烈に刻み込まれた魂の一つだったのだろう。この映画のタイトルにもなってる「Aviator」。これは飛行士、操縦士という意味だが、彼が操縦桿を握っていた場所は、間違いなく資本主義という欲望機械のコックピットだったはずだ。映画のラストシーンで精神を病んだが彼がひたすらリフレインするthe way of fututeという言葉。。それは、操縦士が墜落死したあとも尚も回り続けているプロペラ音のようでもあった。
ちなみに、今話題のホリエモンをこのハワード・ヒューズと比較したがる人たちがいるようだが、日本人の未来のためにもそんな想像は止めよう。あまりにも悲しい、あまりにもむなしい夢想ではないか。。。
全編を通して流れる古き良きアメリカのスタンダードナンバーが最高だったのて、わたし的には★★★ぐらいの作品。ただし、レンタルビデオ屋で借りれば十分である。
4月 23 2005
コンスタンティン
キアヌ・リーブス主演の映画「コンスタンティン」を観てきた。予想していたよりもかなりいい出来だった。キアヌの演技も力が抜けててよかったし、SFXの控えめな使い方も好感が持てた。何といっても一番気に言ったのは、登場してくる天使や悪魔の描き方である。C・ウォーケン主演の「ゴッドアーミー」を彷彿とさせるスタイリッシュな天使像、悪魔像はなかなかのものだ。中でも、ティルダ・スウィントンが演じた大天使ガブリエルが実にいい。彼女の快演が普通であればB級幻魔大戦モノで終わりがちな作品の質を1ランク上げていたと言っても過言ではないだろう。彼女に免じて★★★★を上げよう
さて、この映画、スタイルだけではなくストーリー展開にも一捻り、二捻りぐらい入れてる。だから、単なるエクソシストもののように聖霊万歳、悪魔退散という簡単な構図では話が進まない。普通、ガブリエルは処女懐胎をマリアに告げにくる受胎告知の大天使として有名だが、この作品の中では、ガブリエルはルシフェルの息子マモンと密約を結び、人間界にマモンを引き入れようとする黒幕として描かれている。速い話、善VS悪という単純なイデオロギー対立の世界観はこの映画ははなから持っていないということだ。このマモンを人間界に生誕させるために必要とされるものが、映画の冒頭で登場してくるロンギヌスの槍である。ロンギヌスの槍とは、ゴルゴダでイエスが処刑されるときにその脇腹を突いた槍のことだ。この聖槍の存在はアーサー王の聖杯と並んで、ヨーロッパの代表的な秘宝伝説となっている。かのヒットラーも血眼になって、この槍を探し求めたのは有名な話だ。
まぁ、もっとも、ヌース的に見れば、これらの秘宝は単なる象徴、仮儀にすぎない。神秘学的な解釈を普通にたどれば、これら聖槍と聖杯の結合によって対立物の一致が起こり、賢者の石ヘルマフロディートスが生成されるというストーリーになるのだろうが、重要なことは、それらのシンボルが何を意味するかということである。参考までに、聖槍と聖杯をヌース理論的に解釈すると次のようになる。
・ロンギヌスの槍………男性原理………反定質の力………ロゴス
・聖杯………女性原理………反性質の力………コーラ
ヌース的に言えば、聖槍と聖杯の結合は、ロゴスのコーラへの流れ込み、もしくは、コーラによるロゴスの吸引のイメージとなる。これは宇宙的受胎の意味であり、すなわちいつもわたしが騒いでいる「ヌースの発振」のことだ。このヌースの発振はロンギヌスの槍が聖杯に突き刺さったときに起こるが(エヴァンゲリオンでは月に刺さる槍として描かれていた)、このときこの槍を杯に刺す役割をするのがガブリエルだと考えると面白い。当然、この行為には影があり、それは反ヌース的なものをこの地上に出現させる。。。
映画の話に戻ろう。ガブリエルがマリアの胎(このマリアが実は双子だったことも面白かった)に聖槍を突き刺そうとしたとき、コンスタンティンによって召還されたルシフェルがそれを阻止する。ルシフェルとはマモンのオヤジである。古き魔王ルシフェルはそれなりに古い掟を守り、人間界に勢力を延ばそうとしたバカ息子のマモンを地獄に連れ戻していく。結局、ガブリエルの悪企みは失敗し、ガブリエルは翼をもぎ取られ人間に失脚する。。。
さて、この原作者、よほどの愛煙家なのか、それとも嫌煙家なのか。喫煙がいかに体に悪いかということを、随所でメッセージしてくる。ルシファーでさえ召還できる能力者がタバコの吸い過ぎで肺ガンにやられて死ぬという設定は、なかなか風刺の効いたギャグには違いないが、宗教と科学が完全に引き裂かれ、それらの関係を再構成させることに全く興味を喪失してしまったアメリカニズムの今を感じさせた。。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4 • Tags: ロゴス, 神秘学