9月 20 2005
ファンタジーとノスタルジー
「チャーリーとチョコレート工場」という映画を観に行った。主演がジョニー・デップということと、TVのCMスポットで流された映像センスがよかったので、ついついつられて映画館へと足を運んだ。くぅー、しかし、外した。幾分たがの外れたシュールな映画を期待していただけに見事に外してしまった。プロダクション・デザインや音楽は楽しめたが肝心の物語がつまらない。どうしてこれだけの制作費をこんなつまらない話につぎ込むのだろう。ファンタジー映画が親子の愛をテーマにするなんて最悪だ。誤解しないでほしい。家族愛にいちゃもんをつける気はさらさらない。しかし、最近のハリウッド映画に必ずと言っていいほど盛り込まれている、この親子の絆というテーマは、わたし個人としてはいい加減に食傷気味なんだよな。ファンタジーの世界にまで、こうもギトギトに家族主義を持ち込まれては、ファンタジーではなくなってしまうじゃないか。
そもそもファンタジーとは妖精や魔女や異世界の話である。在りもしないと思われるそうした幻想の世界に人はなぜ心惹かれるのか。それはあり得ないがゆえに人々にとっては絶大な希望となるからだ。あり得ることは希望には結びつかない。というのも、希望はいつの時代でも絶望の反動として機能するからだ。現実から乖離していればいるほど、幻想が人を引きつける威力は増す。現実を押し進めている人間世界の法則性を超えたところに人間は夢や希望を見いだすのである。その最高峰は、宗教では神と呼ばれ、哲学では真理と呼ばれ、芸術では美と呼ばれる。誰もそれらの素性を知らない、いや、誰もそれらの正体を知り得ない、という意味で、それは現実へと変換されることが不可能なものたちである。
しかし、その不可能なものを絶対的な価値として夢見続けている人たちは、世界中にいまだに数多く存在する。こういった夢見の人々を、このブログの名にちなんでケイブ症候群と名付けよう。ケイブ症候群とは女なるものが持つ秘密の花園の中へ入りたがる者たちのその症状名である。原郷への回帰願望。。。そう考えると、ファンタジーというものは、そもそもその根底に常にノスタルジーを孕んでいるものと考えることができる。——ボクちん、おうちに帰りたい。おうちはとてもあったかくて、優しいパパとママがいる。これが人間のパパとママなら、ノスタルジーはあまりに残酷じゃないか。家のない子、親を知らない子たちには帰るところがない。家族主義は孤児の存在を振り返らない。そこがダメだ。
事情は、ケイブ症候群の人々にとっても同じだろう。人間にはパパとママはいるのか?帰るべき原郷=ホーム・スィート・ホームはあるのか?神の国。千年王国。シャンバラ。常寂光土。何でもいい。本当にそんな故郷があるのか?もし存在しなければ、人間はすべて生まれながらの孤児だってことになる。孤児であることを認めたくない気持ちは分かる。しかし、一方では、孤児であることを豪語する者たちだっている。ここは、やはり、どちらの立場も尊重すべきだろう。
——よくよく考えてみると、これは子供向けの映画なのだ。なんで大人のわたしがカッカしている?。しかし、観客は満員だったが、子供の姿は数えるほどしかいなかったぞ。………問題は二重に複雑なんだな。おい、一体どうなってる、世界。世の中は子供のような大人と、大人のような子供だけになってしまったぞ。そーか。いい意味でも、悪い意味でも、もうパパも、ママも、帰る家も無くなったんだな。オレらはみんな同じ孤児だ。いや、みんな孤児なら、孤児じゃない。なっ、そうだろう?
11月 10 2005
バタフライ-エフェクト
広告制作の仕事を終えて、久々のDVD鑑賞。今日は「バタフライ-エフェクト」というやつを選んできた。
タイトルになっている「バタフライ-エフェクト」とというのは、本来は、カオス理論から出た言葉で、初期条件のわずかな違いが挙動の大きな違いを生み,その予測が困難化する現象のことをいう。その法則性を発見した気象学者のローレンツが「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで大竜巻が起こるか?」と講演の中で語ったことから有名になった言葉だ(その変化を図で表すとローレンツ・アトラクターと呼ばれる蝶々の羽のような形になることからの由来とする説もある)。
まあ、タイトルに惹かれてついつい借りて見たのだが、全く先が読めないという意味では、かなり面白い作品だった。ネタバレになるので、ストーリーの詳細は省くが、簡単に言えば、「あのときああしていれば、今はこうだったに違いない」という過去修正もののSFスリラーサスペンスものと思ってもらえばいい。
面白いなと思ったのは、途中、この物語自体の時系列というか、主体軸(語り手の位置)が完全に溶け去ってしまうところだ。過去が変更される度に主人公の現在も大きく様変わりして行く。変更すればするほど、現在は惨憺たるものになっていくのだが。最後の方ではどこが物語の原点としての時系列だったのかがよく分からなくなってしまうのだ。これはなかなかの快感である。。おっと、喋り過ぎ。とにかく、見ている間、一体、このストーリーをどうやって落とすのかが気になってくるのだが、意外にも、なかなか渋めのエンディングだった。個々の細かい部分にはいろいろと文句を言いたい部分もあるが、タイムトラベルもののアイデアとしては極めて斬新。原作者はエライ。DVDで借りて観て損はない作品である。
ヌース的にはどうかというと、もちろんなってない(笑)。時間についてちょっと一言。僕らは、時間を空間と一緒であまりに客体的に見すぎている。もちろん、「今,ここ,永遠」というお決まりのニューエイジ的無時間論もアリだが、そこに一気に跳ぶ前に「主体の秘めたる時間」というものもじっくりイメージしてみるのも面白い。
主体の秘めたる時間。それはささやかな反抗を持っている。というのも、このささやかな歴史の中では、過去は必ず未来からやってくるからだ。何も難しいことを言ってるのではない。たとえば、僕は6歳の頃、日本が戦争で負けたことなど知らなかった。いや、僕が日本人であるということすら知らなかった。僕が使っている言葉が日本語であるということも、そして、父と母が愛し合って僕が生まれたということも知らなかった。日本や父と母との出会いは、この世界に生まれて来た後で知ったのである。このように、主体の時間の中では、過去というものは、必ず未来からやってくる他者によって告げ知らされる。その意味で、歴史というもの、もっと言えば、過去という概念の詳細は、主体の中で開示されていく主体自身の未来の中に育っていくものでもあるのだ。
おそらく、まだ多くの過去がやがてやってくる未来の中で眠っていることだろう。この未来の中に眠る過去が、過去の中に眠る未来と出会うとき、時間は本当の意味で終わりを告げることになる。さぁ、向こうからやってくる一人の美しい女性を見るといい。僕らは、やがて未来のある日に、彼女の過去の全貌を露にすることになるだろう。そうした結ぼれが聖なる結婚というものだ。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 1