5月 8 2006
エンジェルズ・イン・アメリカ
久々にいいドラマを見た。「エンジェルズ・イン・アメリカ」。あの「卒業」のマイク・ニコルズが手がけた6時間もののTVドラマだ。TVドラマと言っても、超大作と銘打たれたどこかの国の映画よりもはるかに映画らしい中味の濃い脚本、演出、演技、etc。おまけにTV企画でどうしてこんなキャストが可能になったのかというぐらいの豪華な俳優陣に彩られた作品だった。アル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソン、ジェフリー・ライト、あと、「オペラ座の怪人」に出演していた……ん〜、名前を忘れた。この作品の原作はトニー賞やビューリッツァー賞を受賞したトニー・クシュナーという人の戯曲らしいのだが、とにかく脚本と役者たちの演技が素晴らしかった。
ストーリーは80年代半ばニューヨークに生きるゲイたちを中心に進んで行く。70年代にウォホールのファクトリーに集まってきたゲイ連中とは違い、このドラマに登場するゲイたちは、弁護士や看護士といったどちらかというとカタギの職業についているごく普通の男たちである。エイズに冒されて死を宣告されたゲイ、彼から去って行く恋人。モルモン教の家庭で厳格に育てられたために自らのゲイへの欲望を抑圧してきた若き弁護士、そして、欲求不満からドラッグ中毒となるその妻。彼らの間で繰り広げられる性愛や生と死をめぐる葛藤がときにシリアスに、ときにコミカルに淡々と描かれていく。極めてシリアスなテーマを扱っているのだが、随所に気の利いたユーモアがちりばめられており、役者たちの熱演も手伝って6時間という長丁場も全く苦にならなかった。腐ってもアメリカ。とても質の高いヒューマンドラマだった。
こうしたドラマをTVで放映することのできるアメリカという国に嫉妬を感じてしまうのは僕だけだろうか。グルメ番組やアイドル番組に占拠された日本のTVシーンではまずこうしたドラマは作られることはない。ゲイ、エイズ患者、ユダヤ教徒、モルモン教徒、それら社会的マイノリティーへの偏見と、共和党政権の偽善や環境破壊など、80年代、レーガン政権の下、「強きアメリカ」が抱えていた様々な暗部が、登場人物の吐く一つ一つの台詞の中に凝縮されてマシンガンのように連射されてくる。時折出てくる、シェークスピアの戯曲のように大仰な言い回しに食傷気味になることもあったが、合間に挟まれるシュールな演出が何とも笑えて、シリアスさとユーモアの畳み掛けのバランスが何とも言えない味わいを出していた。
僕はアメリカで暮らした経験はないが、made in USAの人間ドラマを観ると、あの国はやはり激烈な宗教国家なんだなぁといつも思ってしまう。多様な人種と多様な宗教、そして多様な文化。そこでは異質なものたち同士の接触や衝突が日常茶飯事のように起こっているわけで、こうした国に暮らす人々の精神は本当にタフだ。タフでいられるための信念や信条を何に依拠しているかとなると、結局のところ信仰心ということになるのだろう。あの国で無神論者を自称するにはよほどの勇気がいる。真の無神論者とは、命がけで「神は存在しない」と言える人を指す。その意味で、無神論もまた一つの信仰の体系なのだ。
神の在・不在の真偽は別として、結局のところ、人間は神について考えることなしに思考を進めることはできない。「現代日本人の精神」というものがあるかどうかはよく分からないが、もしあるのならば、その精神も早く開国すべきである。
「マグノリア」のような作品が好きな人は見て損はない。三本組なので、週末当たりに一気に観ることをおすすめする。
6月 1 2006
ダ・ヴィンチ・コード
——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。
とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。
原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげで映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。
要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。
イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。
キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。
この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。
イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4 • Tags: グノーシス, ユダヤ, ロゴス