3月 22 2009
『アクロス・ザ・ユニバース』
久々にDVD評を書きたくなった。なぜって、全面ビートルズの楽曲を使ったミュージカル映画『アクロス・ザ・ユニバース』を見たからだ。
いゃあ、僕らの世代にとっては純粋に理屈抜きに楽しめる作品だった。僕自身は60年代は小学生だったので、カウンターカルチャーの波をライブで経験したとは言い難いのだけど残り香ぐらいは嗅いだつもりでいる。中学2年生のときに見た『時計仕掛けのオレンジ』(監督S・キューブリック)と『イージーライダー』(監督デニス・ホッパー)に衝撃を受け、大の映画ファンになった僕は当時、ロックも大好きだったことも手伝って、ロックミュージカルには目がなかった。
『ヘアー』『ジーザス・クライスト・スーパースター』『ゴッド・スペル』『ロッキー・ホラー・ショー』『ファントム・オブ・パラダイス』『リトル・ショップ・ホラーズ』etc……
おそらく、80年代までに作られたロックミュージカルのジャンルに入る作品はすべて見ているはすだ。中でもダントツに好きだったのがケン・ラッセルが監督した『トミー』(『トミー』は台詞部分が一切ないので正確には「ロックオペラ」と呼ばれる)だったんだけど、彼のPOPな前衛性とほどよい狂気は当時の僕の感性にピッタリとフィットしていた。
さて、この『アクロス・ザ・ユニバース』だが、監督はミュージカル『ライオンキング』でトニー賞を獲得したジュリー・テイモアという女性だ。ジュリー・テイモア?どこかで聞いたことがある名前だと思ったら、10年ぐらい前にシェークスピアの『タイタス』を映画化したお姉さんだった。映画『タイタス』は美術と演出に惹かれて映画館、DVDを含めて4度ぐらい観た作品だが、やっぱり、この人才能あるなぁ。ケン・ラッセルやアラン・パーカー(ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』を映画化した監督)の手法をかなり研究した映像表現に70年代のポップカルチャーが放つ独特の艶っぽさを改めて再確認させられたような気分になった。やっぱりわしは70年代が好き!!
こういう作品が出てくると、必ず自称ビートルズ通の連中がしゃしゃり出てきて何かと酷評するものだが、そういう連中には「なら、おまえやってみろ」と一言いってやるとよい。ビートルズの音楽を映画に取り込むことがいかに勇気がいる賭けであるかを彼らはほとんど理解していない。
ビートルズの楽曲というのはファンたちの思い入れを含めて楽曲のみでその世界が100%完結しているものが多いので、ヘタな映像をカップリングさせても音楽の方が必ず勝ってしまって、曲のBGMにしかならないのがほとんどなのだ。いや、素晴らしい映像表現を持ってきたとしても事情はたぶん同じだろう。結局は、神話的な力を持ったビートルズの音楽の方が勝ってしまう。
この作品は、そのことを十分に承知した上で、それを逆手に取って、映像やストーリー立ては楽曲のパロディーで良いという割り切りがある。それは登場人物の名前の付け方や台本の随所に入る台詞、そして、ラストシーンからも明らかだ。その思いっきりの良さが、この作品をとても後味のよい作品に仕立て上げている。ビートルズファンとしても、ロックミュージカルファンとしても、ジュリー・テイモアの勇気ある挑戦に拍手を送りたい気分だ。ビートルズが好きな人は必見の作品です。娯楽性、芸術性、音楽、役者たちの演技と歌唱力(出演者全員が吹き替え無しのライブ録音らしい。向こうはやっぱり役者の質が高い)すべて含めて、文句なしに★★★★★。BONOとジョー・コッカーも出てるよ〜ん。
予告編はこちら→『アクロス・ザ・ユニバース』
→Come Together
→I want you
→Being For The Benefit of Mr. Kite
→Let It Be
→Strawberry Fields Forever
4月 3 2009
スカイ・クロラ
空の青さに理由もなく泣けてくることがある。
感傷の涙でもなく、もちろん感謝の涙などでもない。
ただ空があまりに広く青いこと。
それだけで、涙するには十分だ。
こんな感覚を体験したことがある人には、この『スカイ・クロラ』は超オススメの映画だ。監督は『攻殻機動隊』『アヴァロン』『イノセンス』などでおなじみの押井守。『攻殻機動隊』は恥ずかしながらまだ見たことがないのだが、僕的には『アヴァロン』『イノセンス』よりも角が取れたという意味でいい出来に思えた。作品のトータリティーとしては★★★★★。宮崎駿の世界よりも遥かに詩的です。。『崖の上のポニョ』が好きな方は見てはいけません(笑)。
舞台は、あり得たかもしれないもうひとつの現代。世界はすでに平和が達成され、その平和を認識するためにショーとしての戦争が行われている。ここで戦争を受け持っているのは国家ではなく二つの多国籍企業だ。戦争というからには誰か人が死ななければならないわけだが、そんな平和な世界で一体、誰が自ら進んで殺し合いを引き受けるというのか——それが「キルドレ」と呼ばれる、思春期の姿のままで大人になることができない突然変異種たちだ。彼らは戦死する以外は永遠の生を生き続けなくてはならない。いや、たとえ戦死しても・・・(口にチャック^^)。彼らにとって戦争はコンビニのバイトと同様、ありきたりのルーティンワークと化しており、その終わりなき生のループの中で、自分たちの生きる意味さえ見失っている——。
押井守は、この映画を現代の若い人たちに向けて作ったというが、おそらくそれは興行上の建前じゃなかろうか。押井作品の一つの特徴は作品の背景につねに存在論的な問題意識が根付いているところにあるのだが、この作品も今までの作品とテイストこそ違え、その路線を一歩もはみ出るものではない。社会が成熟し、生に対する意味が希薄になりつつあるこの時代、この作品は確かに終わりなき日常を空虚に生きる若者たちへのメッセージのようにも思える。一見しただけでは、そのメッセージは「父(権力や体制)を殺せ!!」といった60年代のアジの焼き直しのようにも取られがちだが、現代の若者には殺すべき父などもはやどこにも存在していない。いや、父は巧妙な手段で姿を隠してしまい、その父を探し当てる気力などとっくの昔に消え失せている。たとえ、父を探し当て殺害したところで、殺した奴がまた新しい父となるのは目に見えている。こうした人間社会の動かし難い現実に諦念を抱いているのが現代の若者である。もちろん、押井守もそんなことは知っている。だからこそ、あえてもう一度、彼は「父殺し」をテーマとしなければならなかった。僕にはそのように思えた。——ラスト近くで、主人公のカンナミ(キルドレのパイロット)が自ら操縦する戦闘機の中で「I’ll kill my father!!」とつぶやきながら、父の象徴である「ティーチャー」(敵の戦闘機)に突進していくのだが、このときの父とは、もはや社会的、政治的な権力や体制を象徴するものではない。何かもっと別のものだ。
その意味で、この作品は現代の若者に対するメッセージというよりも、人間そのものに対するメッセージとして受け取った方が逆に理解しやすいのではないかと思う。これは「終わりなき日常」というよりも「終わりなき人間」に対する押井守自身による異議申し立てなのだ。終わりなき人間——それは押井守が若い頃からずっと抱き続けている哲学的テーマ、すなわち永遠回帰を巡る問題と考えていい。
君は確かに輪廻している。しかし、生まれ変わっても、君はかつての両親のもとにまた君として生まれてきて、君が辿った人生と寸分も変わぬ人生を再度送ることになる。そして、この反復はオルゴールのように永遠に繰り返される——さぁ、君はどうやって、この猿芝居を仕組んだ父を殺そうというんだい?
空の広さの中に見える人間であることの永遠性、
空の青さの中に垣間見えるその永遠の向こう側。
僕らはみんなスカイ・クロラ(空を這う者)というわけだ。
映画のストーリーはネタバレになるのでほとんど書かなかったが、この作品は物語というよりも叙情詩として鑑賞する方がいいのかな。あっ、あと必ずエンディング・ロールが終わるまで見ることをおすすめします。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 2