3月 31 2008
時間と別れるための50の方法(6)
●背に腹は変えられない
「前」についてばかり話していても何なので、ここで「後ろ」についても少しだけ。
言うまでもなく、後ろは見えません。視覚的現実としては、後ろは存在していないのも同然です。その意味で『人神/アドバンスト・エディション』では、「後ろ」のことを〈想像的なもの〉と書きました。前が〈現実的なもの〉。後ろが〈想像的なもの〉。これはラカンの言う「現実界」や「想像界」という言葉をある程度、意識した上での表現です。
見ること自身が光であり、かつ、それが「前」の異名であるのならば、「後ろ」とは「見えないこと」そのものの仮称であり、それは「闇」の世界とも言えます。しかし、残念なことに、ラカンの「鏡像段階」論を素直に受け入れるならば、人間という存在はこの闇に依拠して初めて成立することが可能となるような生き物です。というのも、この理論では、人間、すなわち、自我の在り方は、本来、他者の眼差しの中に晒(さら)されることによって、そこから初めて受動的なものとして立ち上がってくるような存在だからです。他者の眼差しに映されたわたしの顔。。。自分の顔は自分には決して見ることができないわけですから、主体は自分の顔を他者の視野という鏡を使って想像的に見るしかありません。そして、その想像的な像に自分を同一化させることによって、初めて自分が顔を持つ人間なのだということを知ることができているというわけです。
ここで、実際に鏡を覗いてみましょう。わぁ、変な顔。。余計なお世話です。しかし、よくよく見てみると、そこに映し出されているのは「わたしの顔」と言うよりも、わたしの後ろと言った方がより正確です。つまり、顔というのは、わたしの背後世界を代表している代理表象なんですね。「前」=知覚正面そのものとしてあった無垢な原初的主体が、他者の眼差しに映し出された顔と同一化することによって、そこに自分を重ね合わせてしまう。ここで正面は一気に背面へとその表裏関係を反転させられ、そこに自分の顔面イメージが登場してくることになります。この顔面イメージはその意味で、本来、単独者(世界にはわたししかいないと感じているわたし)であった主体に貼付けられた個別者(世界にはたくさん人間がいて、わたしはその中の個であると考えるときのわたし)としての仮面(ペルソナ)となります。つまり、顔面とは知覚背面のことなのです。そして、その面には登録名としての固有名が社会的存在の証明書として付与される。こうしたペルソナ(パーソナリティー)が見ている「前」は、もう幼少期の「前」ではなくなっていることを自覚する必要があります。フロイトの言う通り、幼年時代は、そのものとしては、もう無くなってしまっているのです。
普通に、僕らが「わたし」と言うとき、その「わたし」は、『人神・アドバンストエディション(P.407)』にも書いたように、他者にとっての他者として把握された「わたし」であって、こうした「わたし」が前方に見ている方向はもはや他者の後ろでしかありません。向かい合う自他において、単にそれらを自他の肉体的な配置として考えれば、わたしの前方が他者の後方になっていることは自明ですが、見える世界が常にわたしの前でしかないという「現実」を踏まえれば、普通に僕らが前と呼んでいるその自明な方向はすでに現実としての前ではなくなっているわけです。それは「前を見る」という言葉に端的に表されていますね。「前」とは本来、対象ではなく、主体自身だったわけですから。。。
こうして、ヌース理論の文脈でいう、「前」自身を自分自身だと見る「位置の等化」という作業は、フロイト-ラカンの言う「エスのあったところに自我をあらしめよ」という精神分析の目的とするところとほとんど同じものであるということが分かってきます。無意識の主体とは「前」、つまり、現象そのものだということです。いや、もっと言えば、ニューエイジャーたちが言うように光そのもののことだと言ってもいいでしょう。ヌース理論の文脈では、このような光は覚醒した光と呼んでいいものであり、物理学的には、それはもはや光子ではなく、電子と呼ばれるものになります。
コ : 電子とは何ですか。
オ : 光の抽出です。
結論を言えば、僕らが普段「前」に感じている空間の広がりとは、わたしの後ろを前側に回転させて想像しているものか、他者の後ろか、そのどちらかだということです。そこには本当の「前」は存在していません。そして、このような「後ろ」の集合を要は時空(転換位置といいます)と呼んでいるわけです。時空とは鏡の中の世界だと考えるわけですね。深〜い、深〜い、底なしの時空という広がりの中心に、小さく小さく縮んでいる僕らの前。そこが物理学者たちが内部空間と呼んでいるものの入り口になります。この空間を再発見していく者たちが変換人と呼ばれる種族です。これは言わば、生成の途に着く上昇の天使たちと言っていいものです。
ナルシスよ。君はどうしていつも水の中ばかり見てるんだい?
そこに映った少年の美しさは僕にもよく理解できるけど、
君に思いを寄せている少女のことを、君は考えたことがあるのかい?
その少女は君にはもう当たり前の存在となって、
確かにもう視野にさえ入っていないかもしれない。
話すことと言えば、君のリフレインばかりだしね。
でも、君が彼女に向かって「愛してる」と一言、言ってあげれば、
彼女は必ず、その愛に答えてくれるんだよ。
君は君の仲間と愛を分ち合うことが一番だと思っているようだけど、
それは所詮、君の自己愛にすぎないんじゃないだろうか。
だから、聞いておくれ、ナルシスよ。
君はまず、君の目の前のすべてに向かって、
「愛してる」って叫ぶ必要があるんじゃないのかな。
そうすれば、全世界から、その叫びがエコーとなって、
君のもとに返ってくる。
そのとき、君のそのうつろな目に、
初めて水上の光が差してくるんだと思うんだけどね。
4月 28 2008
時間と別れるための50の方法(7)
ようやくMacも復旧。まずは仕事の遅れを取り戻していました。
今日からまたボチボチ、ブログの方も更新していきたいと思います。
現在、このブログでは2月に出した『人神』のアドバンスト・エディションの補足をする内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の内面」と「人間の外面」というヌース用語の基本中の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げている。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、「人間の外面と内面」というヌース特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。
僕らの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置から空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌース理論が今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的意味と重ねられて語られていくことになるだろう。自他におけるこれらの三つの方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌースで言う次元観察子ψ1〜ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。ということで、とりあえずは『時間と分かれる50の方法………6』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異を露わにしていくことにしよう。
「後ろ」は見えません。「後ろ」には「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、いずれも向かい合う他者側から見た場合、その他者の「前」の範疇の中に収めることができるということです。この見えない「後ろ」を見たいとき僕らが使う道具が鏡です。その意味で鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができるわけです。ですから、鏡は自分の前方の中に自らの後方を出現させることができます。ということは、鏡というものはその本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということです。
そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づきにくいのですが、やっぱり、鏡に写っているのは「後ろ」の世界です。ということは、次のような非常識的な推測が成り立ってきます。つまり——僕は自分の顔が前に付いているとばっかり思っていたのだけど、鏡に映し出されている世界は僕の「後ろ」なんだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えなくちゃいけないのではないのか——ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、これは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、実は視点というか、視線の方向がそれぞれ二つづつあるということを言っています。普通、僕らは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側の頭部は「後頭部」と呼ばれ、「後ろ」とされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。極端な話、ほんとうは僕らが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は僕の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。
僕には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう己の顔。この顔は自分自身では実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)です。このペルソナが人間性を養い、パーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げて行く土台となります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。
ですから、僕は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りです。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面-者としての皆さんでしょう。そこで僕はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面じゃないほんとうの顔面は昔風に言えば「面(おもて)」です。時代劇とかで「面を上げぇ~い」と言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面ではありません。シリウスファイルにこんなやり取りがあります。
コ : 人間が見ている世界とは何ですか?
オ : 面です。
シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うそうな。。あひゃ?ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが僕の素顔ってことなのか?
そうです。OCOT情報のいう「面」とは、僕が『人神/アドバンスト・エディション』の中で不動の視野空間と呼んだものそのもののことを意味します。。。。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 2 • Tags: ヌース用語, 人類が神を見る日, 内面と外面